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自分の可能性を追い求めたら、ファッションデザイナーになれた|廣川玉枝 #1

デジタル技術を応用して作られた無縫製ニット「Skin Series」。マドンナやレディー・ガガが衣装として採用するなど、世界中から注目を集めているこの独創的な衣服を生み出したのが、ファッションブランド「SOMARTA」のデザイナー・廣川玉枝さんです。そんな廣川さんが子どもの頃になりたかったのは、デザイナーではなく漫画家。自分にできることとできないことを見極めるのが早いという廣川さんは、いかにしてファッションデザイナーの仕事にたどり着いたのでしょうか。

廣川玉枝(SOMA DESIGN Creative Director / Designer)
2006年「SOMA DESIGN」を設立。同時にブランド「SOMARTA」を立ち上げ東京コレクションに参加。第25回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞。単独個展「廣川玉枝展 身体の系譜」の他、Canon[NEOREAL]展 / TOYOTA [iQ×SOMARTA MICROCOSMOS]展 / YAMAHA MOTOR DESIGN [02Gen-Taurs]など企業コラボレーション作品を多数手がける。2017年SOMARTAのシグニチャーアイテム”Skin Series”がMoMAに収蔵され話題を呼ぶ。2018年WIRED Audi INNOVATION AWARDを受賞。

できることとできないことの見極め

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――廣川さんはファッションデザイナーとしてご活躍中ですが、子どもの頃からファッションに興味があったのでしょうか? 例えば、きせかえ遊びが好きだったとか。

それが、あんまりしていなかったんですよね。お人形ごっこもそんなに。近所に男の子が多かったこともあり、どちらかというと男の子と一緒に塀を登ったり虫を捕まえたりと、外遊びをよくしていました。

今につながる遊びでいうと、絵を描くのは好きでした。学校の休み時間に漫画のキャラクターのイラストを描き、友達に見せたりして。「うまいね」って言われるのがうれしくて(笑)。この頃は、漫画家になりたいと思っていたんですよ。

――そうだったんですね。では漫画を描いてみたことも?

あります。でも、そこで気づいてしまったんです。漫画ってキャラクターが描けるだけじゃダメなんですよね。必ず背景を描かないといけないし、物語も構成しなければならない総合芸術なんです。その頃はファンタジー漫画を描こうとしていたので、背景は必須だったんです。それがもう全然描けない。

――背景はキャラクターとまた別の技術が必要ですよね。

一点透視法で奥行きを出して、消失点を決めて……ものすごく時間をかければ描けるけど、仕事として描くならもっと短時間で描けないといけません。それで、小学生のときに漫画家は諦めました。

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――小学生で背景の必要性を理解して、それは自分にはできないと思った。見切りが早いですね。

私は、自分ができることとできないことを見極めるのが早いのかもしれません。運動も嫌いではなかったのですが、幼い頃に得意ではないと自覚しました。かけっこが遅いし、腕の力が弱く逆上がりもできない。あと、泳げなかったんです。スイミングスクールに通ってがんばったものの、結局泳げるようにはならなかった。私は人よりも、体を動かすのが不得意なのだな、と知りました。

――練習や特訓を一応してみるんですね。

そうですね、努力はしますが、限界まで達するとそこで判断をする。それで、自分は何か他のことをがんばらないと、と思って高校生の時は美術部に入って絵の能力を伸ばそうと油絵を描いていました。その高校に決めたのは、新設校で制服が比較的かっこよかったことと、プールがなかったからです(笑)。

――水泳の授業もない、と(笑)。美術部ではどんなモチーフで絵を描かれていたんですか?

入学式でのカルチャーショック

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よく人物画を描いてました。雑誌を切り抜いて、ファッションモデルを見ながら描いていました。その頃に、女性が美しく装うことは素敵だなと興味が湧き始めたんですよね。

――今につながってきましたね。ファッションへの興味は?

少しずつ芽生えてきました。その頃は神奈川県に住んでいて、横浜や原宿まで出て買い物をしていました。当時、高校生に人気だったブランドの服を買っていましたね。服にも興味は湧いていましたが、そんなにすごくブランドに詳しいというわけでもなく、普通の高校生でした。

――それがなぜ、文化服装学院に進学することになったのでしょうか。

高校3年になって進路を考えたときに、絵を描く仕事をしたいと思って美大に行くことも考えたんです。美術部の友達は、美大を目指す人も多かったですし。でも、絵を描いて食べていくのは難しそうだと思ったんですよね。今でこそ、美大にはグラフィック科や空間デザイン科など様々な学科があると知っていますが、その当時、私にとって画家になるために絵を修行する学校というイメージがあって。自分はゴッホやピカソみたいになる覚悟はないし、絵描きで食べていくのは難しそうだなと思って。

そこで、ファッションデザイナーという選択肢を思いついたんです。ファッションデザイナーになったら、人物の絵が描けますよね。

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――たしかに。背景も描かなくていいですね。

そうなんですよ。私の好きな、人物の絵を仕事として描き続けられる。しかも、自分が描いた服を実際に誰かが着て歩いたら、動くアートだと思って。アートを着ること、そして女性が服やメイク、髪型などで美しく装って変化することは、とても興味深い上に可能性があると思ったんです。なんて楽しそうな職業なんだ、これはもうファッションデザイナーになるしかない、と。

――たくさんの卒業生がファッションデザイナーとして活躍しているのも、文化服装学院を選ばれた理由でしょうか?

そうですね。いろいろ調べると、著名な卒業生を輩出していて、高田賢三さんやコシノジュンコさんなど知っているお名前がたくさんありました。それで、「私もここに行ったら、この方たちみたいにすごいファッションデザイナーになれるんだ!」と思ったんです。

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――入学してみていかがでしたか。

入学式で、大きなショックを受けました。当時は入学生が1000人程参列していたのですが、とんでもなくオシャレな格好をした人ばかりだったんです。崩れたテーラードを着ている人とか、袖が3本ついてる服を着ている人とか……もう、これまでに見たことがない、どこで売ってるのかもわからない服を着ている人がたくさんいました。

――廣川さんは、そんなにモード系のファッションは触れずにきたんですね。

そうなんです。レベルが違う世界が広がっていました。「私はこれから、この環境で勉強するのか……」と呆然としましたね。自分はこの中でいちばん底辺にいることがわかって、誰よりもがんばらなければならないと思いました。

そして、授業がものすごく厳しかったんです。特に担任の先生は、「美しくあること」に厳格でした。

ファッションデザイナーは美を貪欲に吸収しないと

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――「美しくあること」とは?

雑巾を縫う課題一つとってもそうですし、レポートなども提出の仕方が美しくなければ見てもらえません。不備のある書類と制作物を持っていったら、目の前でぱーんと払い除けて、「はい、次の人!」って。私はやられたことがなかったのですが、それを見て「はああ、すごいところに来てしまった……」と震えました。

でもこの先生は、一生涯においてとても大事なことを教えてくれたんです。「ファッションデザイナーは服だけを作っていればいいわけじゃない。美味しいものを食べる、美しいものを見る……すべての美について知っていないと、いいものなんて作れない。だから、忙しいしお金もかかるのよ!」と。この時聞いた言葉は、今でも忘れていません。

――ファッションデザイナーとしての心構えを教えてくれたんですね。

それで「え、この学校で一生懸命勉強してるだけじゃファッションデザイナーになれないの!?」とまたショックを受けて。そうか、服だけ勉強していてもダメなんだと思って、友人と舞台や展示を観に行ったり、東京コレクションをやっているブランドでアルバイトをしたり、学生なりにいろいろとアンテナを広げるようになりました。

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――素直ですね。

そうかもしれません。言われるとすぐ「そうなんだ!」って思っちゃうんですよ(笑)。

――実際に服作りに向き合ってみて、いかがでしたか。

ここではとにかく課題の量が多すぎて、自分がちゃんとできているのか、それともできていないのか、そういうところまで考えが及びませんでした。授業を受けて、放課後も課題の作業をして、家に帰っても服を縫って、早起きして始発の電車で学校に行く。毎日この繰り返しで、とにかくずっと作っていたんです。作らなければ、終わらないんです。

――それがよかったのかもしれませんね。印象に残っている授業はありますか?

身体についての授業はおもしろいなと思っていました。例えばシルエットの授業では、だんだん女性の体が時代と共に変わっていく過程を図で見せてもらいました。日本人の女性の体型も、椅子の生活に変化してからだんだん背が伸びて欧米人に近い体型になるなど、変化してきているんですよね。自分のシルエットも測りました。可動式の棒みたいなのがたくさん出ている板に体をつけると、体の形がそこに残るんです。

あとは、筋肉や骨の構造を学ぶ人体解剖学の授業も印象的でした。西洋服装史も、歴史だけではなく身体の話が興味深かったです。18世紀、19世紀の女性がウエストを細くするために過度にコルセットを締め付け、肋骨をとる人もいた、とか。当時はそれが美しいとされていました。時代とともに、美しいとする女性像も変化していったのです。

おもしろい服が作りたい

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――美しさの基準が現代までにどんどん変わってきているんですね。文化服装学院は何年間のコースで学んでいたんですか?

私は3年制で、1年次は基礎科、2年次からはアパレルデザイン科で学んでいました。学校の課題をこなしながら、校外でのコンテストなどにも応募していました。授業で作る服は、テーラードジャケットやスカートなど、既存のアイテムから派生したデザインの服を作らなければいけない。でも、学外のコンテストはもっと創作的な服を作ってよかったんです。それがすごく楽しくて。おもしろい服を作ることで喜びを得ていました。

――そもそも学校の課題でも忙しいのに、さらに課外活動まで。大変だったでしょう。

とにかく服を作ることに無我夢中で。3年次では、学年で2人だけ選ばれるギャラリーでの卒業展をやらせてもらいました。そのためにまたたくさん服を作らなくてはいけなくて、気がついたら卒業が目前に迫っていました。

――通常はそれくらいの時期だと就職活動なども終わっていますよね。

気がついたらみんな就職先が決まっていて、私だけ「あれ、どうしよう」という状態でした(笑)。服作りに一心不乱になってやり遂げなければならなかったので、そこまで考えが及んでいなかったのです。その後、入りたかったブランドに先生から事情を説明してもらい、就職面接の場を設けていただくことができました。

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――廣川さんが課題も課外活動もがんばっていたのを見ていてくれたのでしょうね。それで、イッセイ・ミヤケに就職された。イッセイ・ミヤケに入りたかったのはなぜですか?

当時、文化服装学院の卒業生の就職先として人気があったブランドはコム・デ・ギャルソンやヨウジ・ヤマモト、そしてイッセイ・ミヤケでした。前者の2つはヨーロッパ的な型紙や立体裁断で作る服がメインで、パタンナーとしての能力が問われると思いました。

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私はどちらかというと、素材から服を作ることに興味があったんです。糸にふれているときが楽しい。そして、素材から作る、服の形自体を新しく作るということを将来的にもやりたかったのです。

――面接はどうでしたか?

自分で作った服をいろいろ持っていって面接に臨んだんですけど、うまく話せなかった記憶があります。もうだめかなと思ったのですが、合格して。ご縁とチャンスをいただいたので、またそこから心機一転がんばろうと思いました。


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この記事は、POLAが発信するイノベーティブ体験「WE/」のコンテンツを転載したものです。ぜひ「WE/」のサイトもご覧ください。
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