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生得の位とは長也。嵩と申すは別の物也。

一昨日、話の流れで風姿花伝について書いたら、なんとなく気になって久しぶりに手に取ってみた。私が1番好きな古典文学の書。

確か高校時代の教科書に登場した記憶があるが、 風姿花伝の中でも1番有名なこの部分が取り上げられていたと思う。

秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。(中略)
この花の口伝におきても、「ただめづらしきが花ぞ」と皆知るならば、「さてはめづらしきことあるべし」と思ひまうけたらむ見物衆の前にては、たとひめづらしきことをするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。(中略)
見る人は、ただ思ひのほかにおもしろき上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、為手の花なり。さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手だて、これ花なり。

あまり得意ではないが、簡単に訳してみる。

秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、という。この違いを知ることが、花を知るために、重要な点である。(中略)

この花の口伝の書においても、「珍しいものが花だ」と皆が知っていると、珍しいものが見れると思っている観客の心に珍しいという感覚は生まれない。(中略)

観客は思ってもみなかった名演者とばかり見て、これが花だと分からないことが演者にとっての花となる。つまり、人の心に思いがけない感動を呼び起こし、魅了する手立てこそが花なのである。

確かこの部分が教科書には抜粋されていた。

私が好きなのは、「問答」の部分で、「長」と「嵩」について述べている章である。

まづ、稽古の功入りて位のあらんは、常の事なり。
また、生得の位とは、長なり。嵩(かさ)と申すは別のものなり。多く、人、長と嵩とを同じやうに思ふなり。嵩と申すは、ものものしく、勢ひのある形なり。また曰く、嵩は一さいにわたる義なり。

これも簡単に訳してみる。

まず、稽古を積んで、芸位が備わるのは、当たり前のことである。このことを「嵩」という。

反対に、生まれながらにして備わっている位を「長」という。嵩とは別のものである。多くの人は「長」と「嵩」を同じように思っている。しかし、「嵩」というのは、重々しく勢いのある姿勢のことだ。さらに言うと、「嵩」は芸の幅が広いという意味でもある。

私はこれを読んだ時、自分には「長」(=生まれもった才能)はないけれど、「嵩」(=歳を重ねていくにつれて、生まれる人としての重みや存在感、はたまた人間性)を大切に生きていくということが、とても大切な気がした。

600年もの時を超えて、世阿弥の言葉が1人の女子高生に届き、そこからずっと私はこの言葉を胸に生きている。

久しぶりに風姿花伝を手に取って、初めて読んだあの時に、この言葉を大切にしようと思った気持ちを思い出す。

人としての重み、人間性。忘れちゃいけない大切なことを心に私はこれからも生きる。

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