汚れながら生きる
子どもの頃、大人が嫌いだった。エアコンの風は身体に悪いからと灼熱の中、冷房なしで行われる授業。休み時間に職員室に行くと、冷房がガンガンにかかっていて、大人はずるいと思った。
テレビをつけると、芸能人の不倫や浮気の話で盛り上がるワイドショーや略奪愛に燃える恋愛ドラマ。大人の世界に綺麗な愛はないのだろうか。
それでも私は早く大人になりたかった。大人になれば理不尽なことも自然に受け入れられるようになると思っていた。
そんな当時小学生の私に、こんなことを教えてくれた大人がいた。若い頃の苦労は買ってでもしろっていう言葉もあるけれど、苦労はできるだけしない方がいい。ただ何を苦労だと思うかは自分次第だ、と。
これまで生きてきて分かったことは、苦労をした人は2パターンに分類される。
苦労した分だけ人の痛みに敏感になってやさしくなれる人と、自分ばかり苦労するのは不本意だと他人にまで苦労することを強いる人がいるのだ。
どんな時であろうと、私は前者でいたい。しかし、人が困っている時にすぐ手を差し伸べられるようになるには、自分自身のキャパシティを広げないといけない。
人生において、何かしらの試練が振りかかってきたとき、これがいつか人のためになるかもしれないと考えるだけで、その試練を乗り越えるための苦労は私の中で苦労ではなくなる。
この世の中は理不尽なことばかりだ。自分が若い時もそうだったからとかずっとこうだからという意味の無いルールがあったり、人の優しさを簡単に踏みにじる人がいたりする。人は優れた生き物だからいずれその環境に適応してしまう。
かの有名な作家はこんなことを言った。
汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならい。
生きているのに、汚れていないつもりならば、それは鈍感である。
吉行淳之介/ なんのせいか より
生きることは汚れること。確かにそうかもしれない。汚れることで見える世界も得られることもきっとあると思う。
でも子どもの頃に憧れていた大人たちはみんな綺麗だった。汚れてなどいなかった。
私は生きるために、汚れることを厭わないながらも、綺麗に拭き取る手間を惜しまない。そうやってもう少しだけこの理不尽な世の中に抗いたい。
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