【詩を食べる】海に行かばなぐさむべしと(牧水)/海の底力、スープ・ド・ポワソン
海では癒えない痛みと
一昨年の春から、遠浅の美しい海から徒歩1分のところに住みはじめた。
毎日ことなる海の表情を見るのはたのしい。
ただ、海のそばで暮らす人間として、声を大にして言いたいことが一つある。
海はたしかに美しいけれど、
悲しみは、海では癒えない。
こと、恋愛系のズキズキとした悲しみ。これは、海を見ることで癒されはしない。むしろ、せんなさが増すだけである。
わたしもいっぱしの「文学少女」として、"かなしいときは海を見に行く(寺山修司)"ではないが、「海に行けば悲しみが癒やされるのではないか」という文学的思い込み(?)があった。それで、何度海に行ったかしれない。
でも、心の深いところまで癒されることはなかった。言い換えれば、それくらいで癒やされる悲しみなど、たいした悲しみではないのかもしれない。
海に行けばこの心(失恋)は慰められるだろうとひたすら思いこがれていた、その海に来たは来たけれども…。
若山牧水のこの歌を読むたび、「ほんとにそう」と言いたくもなる。
ひた思ひ、までの気持ちの切実な盛り上がりからの、しんみりとした着地。
冬の海の渺渺としたさびしさが骨にしみるような歌だ。
このとき、若山牧水は激しい失恋を経験していた。
恋の相手である園田小枝子さんは、牧水と出会った時すでに人妻で二人の子どもがいた。にもかかわらず(それを知らない)牧水はすっかり夢中になり、なかなか一線を越えさせてくれない彼女に『僕は近来殆ど狂人である』とまで思い詰めていた。
その小枝子がようやく泊りがけの旅行をゆるし、ふたりは正月を房総半島の根本海岸でともに迎えた。そのときの歌がこちら。
牧水は「互いに惚れてる」と信じ真剣に結婚を考えるけれども、彼女のほうはちがったらしい。やがて彼女は牧水の従弟・赤坂庸三と深い仲になり、妊娠。牧水の恋は終わった。
第二歌集『独り歌へる』は、心が離れていくことへの痛切な思いを凝縮した歌も多く見られる。
そして、小枝子と過ごした安房の渚に来て詠ったのが、標題の
というねじ切れるような寂しさを率直に詠った歌だ。100年以上前の歌にもかかわらず、痛い失恋をしたことのある人の心にストレートに飛び込んでくる作品である。
かなしい目にあったときに。海の底力をまるごといただくスープ
この歌に、冬の海の寒さに拮抗できるのは、スープ・ド・ポワソン(魚のスープ)にちがいない。
海の底力を集めた、体の芯からあたたまるスープ。
そんなイメージを持っているのは、誰かがそう言っていたような…?と調べて、江國香織さんの『号泣する準備はできていた』に出てくる記述だとわかった。
この「フィッシュ・スープ」=スープ・ド・ポワソンである。魚のアラや貝をぐつぐつ煮込んだ南仏のスープ。
新鮮な白身魚であればなんでもいいらしいが、今回、アラカブ(カサゴ)をメインにした。わたしもある日、打ちひしがれた気持ちで海をながめ、寄った港で5匹220円だったアラカブ。深い所に棲むアラカブは鮮やかな赤色をしていて、ひっそりと情熱を燃やす牧水の恋心のようだった。
アラカブ(カサゴ)は学名がSebastiscus (セバスティスクス)、ギリシャ語のsebastos(セバストス、「尊厳」の意)に由来するらしい。たしかに神妙な面持ちをしている。
白身は引き締まって脂がのっており、たいへん美味。
小ぶりなものは魚売り場ではあまり目立たないが、りっぱな矜持を感じる。
骨からじんわり、ガツンとした旨味がとけだし、一口ひとくちがゆっくりと体にしみこんでくる力強いスープだ。小枝子への想いはとげられず、踏みにじられたような思いをしながら冬の海をながめる牧水を思いながらスープをすする。
「とてもほんとうとは思えない、と思うくらいかなしい目にあった」ときのために、このレシピを覚えておくのもいいかもしれない。
作者について
若山牧水(1885-1928)宮崎県生まれ。
旅好きで、旅先のあちこちで歌を詠んでいる。(ご子息の名前は「旅人」)いまなお口ずさまれる歌をたくさん作り、ファンも多い。
といった代表歌は、どこかで聞いたことがある人も多いのでは。あちこち旅行しているので、若山牧水歌集をもっていると旅行記的にも楽しめ、旅のおともとしても最適。
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