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沈黙の世界(6)真理と美と。その慎ましやかなあり方
マックス・ピカートが詩的な言葉で「沈黙」の意義を問う『沈黙の世界』という本より、引用です。
前回は、言葉は真理に支えられており、言葉は真理を告げる、という話でした。
ところが、
人間には真理を完全に言葉のなかへ表現しつくす能力がない
だから、
人間は、自分が真理でもって埋めつくすことのできない言葉の空隙を悲哀(かなしみ)でもって充(み)たすのだ。
その悲哀は言葉をすっと沈黙に引き渡します。それで、言葉はそっと消えてゆくのだと言われます。
次は、美の話です。
真理のまわりには一種の光輝(かがやき)がある。
真理をとりまく光輝、──それは美にほかならない。
そして、美があらかじめ遍在(あまねくあること)しているから、そこに真理も浸透していけるのです。
美は沈黙のなかにもある。
もし、沈黙に美がなければ、沈黙はただの暗黒となり、地上にとどまらず、奈落に沈んでしまう、とピカートはいいます。
そしてその際、地上の光明に属している多くのものを、いっしょに引きさらって行くことであろう。
美が沈黙をゆるめて、そこはかとないものにするから、沈黙もまた地上の明るさの一部となる
美しい表現です。私たちが「沈黙を美しい」と感じる時はあります。そういう美しさが、沈黙の静かな明るさとなって、そうっと沈黙を地上にとどめおけるようにしている、というのです。
そして(美は沈黙を)人間へともたらすのである。
それからさらに、話は言葉と沈黙の関連をめぐって、愛情と憂鬱にも広がります。
言葉は、自己がそこから立ち現れたところの沈黙と、つねに連関を保っていなければならない。
そこで、唐突なようにして、人間の「愛情」が出てきます。
言葉は愛情をこめてふたたびその源泉を振り返る
言葉が愛情を通じて沈黙と連関しているのは大切なことである。
あらゆる言葉にはあらかじめ愛情が織り込まれており、
その愛情が言葉と沈黙をつないでいるのです。一方、
ただ単になんらかのほかの言葉から由来したにすぎない言葉は、固くてとげとげしい。そのような言葉はまた孤独である。
そして、現代の憂鬱の大部分は、人間が言葉を沈黙から切りはなすことによって言葉を孤独化したことに原因がある。
つまり、自分の頭で、愛情をもって深く考えなかった言葉を発すると、その言葉は、どこかのSNSや新聞や断片的な文からの切り抜きになり、言葉は孤立し、沈黙の奥深さを失ってしまう、
それが、現代の騒音社会を作っている、という認識でしょう。
さて、言葉を生み出すのは人間の精神ですが、
この測り知り得ない精神は、
自己の下に不可測の沈黙を必要とするのだ。
まことに、沈黙は精神のための自然な土台である。
私たちが、木々や草花のなかで、または夜の闇のなかで、ひとり居て静かに呼吸をする。そうして時間を過ごすようなことが、私たちの沈黙する精神を養うのでしょう。
『沈黙の世界』マックス・ピカート、佐野利勝訳、みすず書房、1964
また、沈黙を忘れた世界を描いた「児童文学」が、ミヒャエル・エンデの『モモ』です。それは大人のための文学といえます。
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