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思考する精神の高さ - パスカル『パンセ』(2)

前回は、パスカルの名著『パンセ』(瞑想録)から、有名な一節を見ました。「人間は考える葦である」の言葉です。

さて、パスカルは地上的な救いのなさに失望し、キリスト教の神を求めたのでした。

その信仰に至る過程で、パスカルは現世のこと、社会のこと、そこに見られる人間の「ダメさ加減」を思考しました。

この「考える」ことのつらさと苦しさを通じて、パスカルは信仰を確かなものにしたのでしょう。

この世のむなしさが見えないのは、おのれ自身がよほどむなしいのだ。だからそれは誰にでも見える。もっとも若者は別だ。彼らはみな、騒ぎと気晴らし、そして将来の計画のうちにあるのだから。

「気晴らし」はパスカル哲学のキーワードです。

地上の人間は、むなしい苦労に耐えられないから、「気晴らし」をして生きている、とパスカルは見ます。少し冷たい、突き放した見方です。

だが、彼らから気晴らしを取り去ってみよう。倦怠でふさぎ込むのが見られるだろう。彼らはその時、我知らずおのれの虚無を感じている。おのれを見据えてそこから目を離せないように追い込まれるやいなや、耐えがたい悲しみに陥るのは、なんとも不幸なことではあるまいか。

まず、この世はむなしい、と言い、「若者」の話をします。しかし実は若者にかぎらず、「気晴らし」がなければ人間はとても生きられないか、そちらへ逃げがちであることをパスカルはくり返し書いています。

それは冷厳な事実だとパスカルは考えます。

おそらく、パスカル自身も「ずっと真剣に哲学し続けるのはしんどいな」という実感を持って、ちゃんと自覚していたのでしょう。

また、この世についてこうも語っています。

正しい者が強くなるか、強い者が正しくなるかのどちらかでなければならない。

そこにかんたんな考察を加えたあとでこう言います。

こんなわけで、正しい者を強くすることができなかったので、強い者を正しいと定めたのである。

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