炒めたきゅうりと既成概念
朝、炒めものにきゅうりを入れた。他の野菜が少なかったのだ。
ちなみにわたしがきゅうりを炒めたのは人生で2度目。一度目は、先日ゴーヤチャンプルーをつくっていて、娘にはまだゴーヤが苦いかなと思って、思いつきで娘の分だけきゅうりを数切れ入れたのだ。
つまり、最初からおとなも食べるつもりできゅうりを炒めているのは初めてのこと。
“まあ、瓜だしなあ”。
起き抜けの頭でぼんやりとそんなふうに思う。ズッキーニやかぼちゃ、冬瓜なんかはよく焼いたり炒めたりするし、きゅうりだって炒めたらそんな感じなんじゃあないですかね。きっと。
そのくらいの適当さで、ざくざくとこれまた大雑把に斜め切りしたきゅうりをバサッと投入。
他の野菜とともに、ハーブソルトとオリーブオイルでグリル野菜風によくよく焼いて、油漬けのツナ缶をこれまたドサッと汁ごと入れて、炒め煮に。おとなだけなら食感重視でサッと炒めて終わりにしたいが、1歳半を過ぎたばかりの娘も食べるのでやわらかさが重視されるのだ。
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どれどれ。ひと切れつまんで食べてみたら、これが意外とおいしい。なんだろう、ズッキーニや冬瓜ともまた違って、たしかにきゅうりなんだけれど、生のきゅうりとはまた違ったおいしさがある。
生のきゅうりがサクッ、パリッ!と歯切れのよい食感だとしたら、炒めたきゅうりはもうちょっとズシッ、と歯にかかる噛みごたえがあって、けれどズッキーニほどとろりともせず、そこはきゅうりらしくあっさりとした食感。そこへツナ風味の油がいい感じにからんでいる。どちらもおいしい。
この例えがどれだけのひとに伝わるかわからないが、チョコモナカジャンボとモナ王みたいなものだ。パリパリッ!を売りにしたチョコモナカジャンボと、しっとりモナカ&アイスとの一体感を売りにしたモナ王。好みはあるだろうが、出されて食べれば結局、どちらもおいしいものだ。
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「きゅうり 炒め レシピ」などで検索をすると、意外とレシピは結構出てくる。それに、これまでもなんとなく頭の端では「きゅうりは炒めてもおいしいらしいよ」と知っていた。
それなのに今までやらなかったのはなぜかと言われると、よくわからない。しいていえば、やる必要がなかった、のかもしれない。
だって炒めておいしい野菜は他にもたくさんあるし、せっかく加熱という手間なく、切ったり和えたりするだけで一品増やせる便利な食材なのだから。そのままでおいしいなら、そのままでいいじゃない。そのくらいの気持ちだ。
でもそんなきゅうりさん、加熱してみたらまた違った一面を見せてくれた。その新たな一面を知ってしまったら、あ、こんどは違う切り方にしてみようとか、ごま油と塩できゅうりだけ炒めても絶対おいしいよなあ、とか、いままでとは違った方向にポテンシャルが広がるものだ。
「ふつうそうでしょ」「今までこれでやってきたんだからこれでいいじゃん」。そんな慣習というか、“理由なき枠”をとっぱらうってのは、日常をより楽しくするという意味でも、意外と重要なことなのだろう。
既存の枠をこえるとか、既成概念をとっぱらう、ってさ、何もビジネスや人生っていう壮大なテーマだけじゃないんだなあ。むしろ日常生活のほうが、枠をとっぱらった先にある新たな喜びを毎日享受できる分、枠にとらわれない重要度は高いのかもしれない。
炒めたきゅうりをぽり、ぽりとかじりながら、朝の食卓でそんなことを考えた。
(おわり)
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P.S.ちなみにあなたは、きゅうりは生じゃないと許せない派ですか? それとも加熱もいける派?または食べたことないけど美味しそうだと思える派? もしくは、むしろ加熱じゃないとダメな派でしょうか(青くささ減りそう)。我が家では夫婦とも「まあ違和感あるけどこれもありだよね」派だったのですが、みなさんどうなのかしら。興味本位のアンケートですが、よろしければコメント欄にひとことどうぞ。
P.S.2 参考までにネイバーまとめ貼っておこう↓。鶏肉と胡瓜の中華炒めとか美味しそうです。さあさあ、今夜は炒めたきゅうりでも。
【公開後追記↓】
twitterやコメントで、中華料理として食べたことがある、という方がちらほら。なるほどたしかに食べるとき「なんか異国感あるな」と思ったのは、外国ではやりそうだな〜という感覚が自分のなかにもあったのかなと。それにしてもお隣中国、アジア圏で味覚も近そうだけれど、ところ変われば“常識的な感覚”なんてかんたんに変わるものですね。おもしろい。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。