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書き手が出過ぎるインタビュー記事もあっていいんじゃないか

noteはわたしにとって、“好きなように書く”を実現させてくれる場所だ。

だから例えば、通常のお仕事ライティングではやってみたくてもビビってできないことを、ここでは存分に試してみたい、という思いがある。

そのひとつが、「書き手が出過ぎるインタビュー記事」。

一般的に、(無名の)書き手が出過ぎるインタビュー記事というのはあまり好まれない。

考えてみればそれもそうだ。インタビューは原則として「される」側に価値があるので、読者もその人物の経験や、考えていることが聞きたいからだ。インタビュアーはその人物の話を引き出す黒子にすぎない。

もちろん、いろいろと例外はある。例えば、インタビュアー自身がなんらかの“有名人”であれば、どちらの発言にも価値があるから、読者も双方の話す内容が読みたい(ただその場合は「対談」という形で、それを記事に落とし込むライターや編集者は別にいることが多い。あとは"有名編集長”が執筆まで行うという形もあったりする)。

ただ世の中、そこまで書き手側のキャラがたっているケースばかりではないのもまた事実。いや、わたしも最終的にはそこを目指したい……と思うのだが、いかんせん現状では届いていない。

というわけで、この記事ではあくまで、"無名ライターが、聞き手と書き手を兼ねる”ケースについて話していると、ご了解いただければ幸いである。

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ちなみに、インタビュー記事には、ざっくり分けると2つの形式がある。

・ナレーション的な「地の文」があるもの
・単純なQ&A形式のもの(「地の文」がなく、会話のみ)

テキスト部分だけで考えるなら、単純なQ&A形式のものよりは、ナレーション的な地の文がある原稿のほうが「書き手」の印象は強くあらわれることが多いと思う(対談要素が強い場合をのぞいては)。

ただ「地の文」も、必ずしも「書き手」の考えていることが表現されているものではない。多くは「相手が話した内容を要約」したり、「一部に相手のセリフを引用」したりしながら、前後をスムーズにつなぐ役割を担っている。

わたしもクライアントワークとしていただいたインタビュー原稿を執筆しているときは、できるだけ存在感を消す。もちろん、完全にゼロになるわけではない。インタビューされる方の魅力が初見のひとにも伝わりやすいように、読者が読みやすいように、黒子としてサポートをする、その仲介者としての役割に徹するのだ。

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ただ、そこをなんとか。そんな思いがある。

もうちょっと、単なるつなぎとしての「地の文」じゃなく、そこに筆者が、ぐいぐいと自分の思考を入れてしまったりするインタビュー原稿も、あっていいんじゃないかなぁ。ずっとそんなふうに思っていた。

なぜそう思うのだろう。考えていくと、結局は自分の欲だなぁと気づく。

結局は、「自分だから書けるもの」を書きたいと思っているんだな。存在感を消して、ほかの誰かでも書けるような、ただただきれいに読みやすくまとまった原稿ではなくて。もっと、人間くさいもの。

そこに聞き手=書き手の人物像があらわれていて、その視点がはいったうえで、かつインタビュー原稿としてちゃんと、相手の魅力が一番に伝わるようにまとまっている原稿が、つくりたい。

そんな欲張りな気持ちのあらわれだ。

インタビューした相手の話があったうえでふつふつと湧いてくる、書き手である自分の感情や、ツッコミや、言いたいコメント。そういったものをできるかぎり排除して、プレーンに、プレーンに。個性をそぎおとして、書き手の顔が見えない原稿に。よほど柔軟で尖った媒体は別だが、一般企業の多くの「お仕事」ではどうしてもそういうものが好まれる。

言い換えればそれは、圧倒的に、「わたしじゃなくても書けるもの」だ。

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だから、ここnoteでは、書きたいように。

そう思って書いているのが、ライフワークとしてやっている人生インタビューのシリーズ『ワーホリ、その後』である。

前回第1弾であるもとさんの記事を全5回でアップして、ちょうどいま、第2弾の原稿を最終調整中である。来週には公開できそうだ。

このシリーズでは、書き手であるわたしの脳内もちょいちょいあらわれている。お前の意見聞いてないわと、読む人によってはうざいのかもしれないなぁ、と思いつつ、それでも書きたいようにやってみている。まずはやりたいようにやってみる実験だ。

もうひとつ、あまのじゃくの実験として、文字数も気にせず書いている。

「長すぎると読まれない」「連載記事は後編が読まれない」と言われるWeb記事の世界で、『ワーホリ、その後』の第1弾は、連載5回の超ロングインタビューになってしまっている。

たしかに、不特定多数の人に読んでほしいのなら、短いにこしたことはないだろう。でも、読みやすさのためにある程度まで削ったら、それ以上「文字数をあわせるために」無理に削るのは、もったいないなぁと感じるのだ。たいせつな空気感が、ぽろぽろ抜け落ちてゆくようで。

以前、個人のホームページでワーキングホリデーに関する体験記的なものを書いたことがあるのだが、そのときはかなりの長編だったにもかかわらず、問い合わせフォームから、熱の込もった感想をいろいろといただいた。

興味があるひとや、気になるひとは、長くても読んでくれるのだな、とそのとき思ったのだ。そして大勢に広く浅く届くより、数人でもいいから、深く届いてくれたほうが嬉しい(もちろん目指す先は、多く、かつ深く、ではあるけれど)。

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日々、noteを更新するなかで、この場所には、熱を込めた記事を、それに近い熱量で受けとってくださる方がいるなぁ、と感じている。

この原稿も、届くかな。届くといいなぁ。

そんな思いを抱えて、インタビュー原稿に向き合っている。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。