子育て中のイライラと向き合ってみる
最近やたらと、怒りの導火線が短い。
そんな自覚もあるのだけれど、どうにもコントロールがきかない。
いつから自分はこんなに怒りっぽくなってしまったのか。出産直後ならともかく、1年以上を経過しているからそれだけが理由ではないだろう。
「◯◯ちゃんがこんなに怒るなんてめずらしいね」。20代のころはそう言われていたはずの、怒りと縁遠い自分はどこへいったのか。
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すこし前、保育園の開催するミニセミナーで「子育て中のイライラと付き合う方法」というようなテーマの講演を聞いた。
カウンセラーの先生が話されていたことのなかで、ひとつ、確かになあと思った比喩がある。
「基本的に子育て中の怒りというのは蓄積です。コップをイメージしてください。そのなかに、一滴ずつしずくをためていっているんですよね。
たとえば朝から、こどもが着替えるのを嫌がってちょっとイラッとして、『でもこんなことくらいで怒っていても意味がない』と飲み込んで、まずひとしずく。ごはんを散らかすばかりで全然食べてくれなくて、『ここで怒っちゃ負けだ』とぐっとこらえて、またひとしずく。
でもそうやってひとしずく、ひとしずくはものすごく小さいけれど、コップにたまっていきますよね。だから最後のひとしずくも、ものすごくささいなことだけれど、それがぽちゃん、と落ちた瞬間に爆発してしまうんです」
おぼろげな記憶からわたしが補完しているところもあるので先生のお話そのものではないが、主旨としてはこんな感じ。
この比喩にもとづいていうと、わたしのコップはもともと小さいうえに、最近はつねにたぷたぷと水がたまっている状態だなあ、と思う。
そして最後のささいなひとしずくがぴちゃん、と落ちて、コップがあふれてちょっと爆発して(「もう!!」とか「何やってんの!!」とか大声で怒鳴るという、自分としてはやりたくない行為をしてしまって)、ああ、そんな自分がいやだなあと思い、消化しきれないまま、深呼吸をしてなんとか冷静さを取り戻そうとする。
だから結局、コップの水はあふれてちょっとこぼれたのだけれど、からっぽになってはいないのだ。
6割とか7割とか、つねにそのくらいの水が溜まっている。
以前のわたしなら「そんなことでそんな怒らなくても」というささいなことで、イラッとして、カッとして、また、小噴火する。そして、ループする。
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昨日の朝は、自宅からPCとカメラをしょって自転車を2駅分こいでいた。目的地につき、ようやく涼しい場所で作業ができるぞ!と思って歩いていたら、保育園から電話。もちろん「お熱なのでお迎えお願いします」コール。
ああ、と心のなかで深くため息をつき、汗だくのまま、コンビニで飲み物を買ってそのまま自宅方面へ引き返した。
コップのなかに溜まった6割の水は、この時点で暑さと疲れですでに7割に。さらに、子の状態はどうなのかという心配や、今日の自分の予定が総変更になるというフラストレーションで一気に8割を越してしまう。
“しかたがない、家族がいるというのはそういうことだ。自分がのぞんでこの生活を送っているのだ。だからこんなことで怒ってはいけない。そういうものなんだから”。そう自分に言い聞かせるたび、コップのなかにぽちゃん、ぽちゃん、としずくが落ちてゆく。
自宅へ戻ると、娘は水分補給と発汗で回復したのか、平熱に戻って元気にしていた。まずは何より、大事にいたらなかったことになによりも感謝すべきだ。最近入院を経験させてしまった身として、健康のありがたみは痛いほどわかっている。
今日の予定を変更し、娘の昼食をつくる。食べはじめはごきげんだが、必ず途中でふきげんになる。あの手この手でだましだまし、きげんを回復させたりしながらごはんを食べすすめる。それでもだいたい、途中で皿を投げ飛ばされる。つくったごはんは見事に床に散らばる。これが毎食繰り広げられる。もはや散らばった食べものたちは現代アートのようだ。
熱中症対策に塩分と水分をとってほしいからとスープもつけるが、こちらもひっくり返して、ズボンが水浸しに。ああ、またか……とあきらめた感情で、動じずにとりあえずごはんを食べさせていると、こんどは牛乳をひっくり返す。テーブルの上に水たまりになった牛乳を、手でびしゃびしゃと伸ばして遊ぶ娘。時折しぶきがこちらまで飛んでくる。
こうやって書いてみれば、自分でも「わかる、1歳児なんてそんなもんだよね」という光景だ。むしろ、一歩引いて見ればほほえましくすらある。
液体をテーブルにごしごしするのも、食べ物を手にぐちゃぐちゃとつぶして遊ぶのも、彼女にとっては五感をつかって観察・研究している過程なのだ。悪気はないし、むしろ存分にやらせてあげたらいいよ。そう言いたい。
だがコップの水がすでに9割近い状態だと、ほほえましいはずの光景が、ほほえんで見ていられなくなってくる。そういうもの、そういうもの、と自分に言い聞かせながら(コップにしずくを一滴ずつ追加しながら)、途中まではそれでもなんとか、相手をしている。
けれど何かの拍子に、(わたしの心のなかの)コップの水があふれてしまう。
それはたいてい、ごはんやおかずがまだ残ったお皿を、全力で「ブンッ!」と投げ飛ばされたとき、が多い。
第一に、まだ食事が終わっていないからちゃんと食べてほしい。最低限、栄養も水分もとってほしい。第二に、仮にも一生懸命つくったごはんを床に投げ飛ばされるのはメンタルにくる。第三に、床の残飯そうじがまたものすごく大変だ。第四に、また着替えさせなければならないし、シミだらけの洋服を洗濯しなければならない。第五に、「これが毎食つづく」という状態が何よりも疲れる。
声を荒げてしまったあとは、何より自分がさらに疲弊する。ああいかん、と深呼吸して、冷静さをなんとか取り戻そうとする。
コップの水は、なくならない。
つねに、ああこんなはずじゃないのになあ、と思っている。
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育児のたいへんさは、人それぞれだ。最近よくそう思う。こどもがちがうし、親の考えもちがうのだから、あたりまえといえばあたりまえだ。状況がちがうのだから、解決策もまたちがう。
だから個人的には、インターネットでもリアルでも、だれかのアドバイスを求めているわけではないのだ。それこそ離乳食のころはその点を見失っていて、インターネット上の情報にずいぶん翻弄されてしまった気がする。だれかの正解が、我が家の正解とはかぎらないのに。
いまの自分がしたいことは、こうして自分の気持ちを文章におとしたりして、客観的に見つめてみることなのだと思う。noteという場所があって、その機会をもらっている。
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書いていて思ったけれど、最近の暑さはそれだけですでにひとつのイライラ要因だ。正確には、外の暑さや、室内と室外の気温差によるからだの重さ。なんだか常に、疲れている。
すずしくなってきたら、またちょっとは、状況がかわるだろうか。コップの水は、平常時が6割から、せめて3割くらいになるだろうか。
それまでは、なんとか。こうしてたまに、自分のこころを客観的に見つめてみることで、夏をのりきりたいと思っている。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。