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とある妊婦の脳みそ【4】人はいつも自分の目線でしか世界を見られないものでして

ひとり暮らしをしていたとき、テレビは持ってすらいなかった。

当時は毎日仕事に追われてPCに向かっていたから、休める時間に“画面”を見たいと思わなかったし、インターネットさえあれば事足りていたので何も不自由は感じていなかった。

*  *  *

その生活から一転。

結婚を機に仕事もひとくぎりつけて遠方へ引っ越し、部屋づくりをするなかでテレビも購入。

妊娠がわかったのは、ようやく引っ越しのごたごたや部屋づくりを終え、これから新しい仕事の獲得に動いていこうかな、というタイミングだった。

そして突然の、自宅安静指示。

期せずして私は、テレビ人間と化した。

その数ヵ月前まではまったく興味も抱かず、持ってすらいなかったテレビが、日中の私の気を紛らわせてくれるパートナー。画面酔いするので長時間見ていることはできないが、寂しさを感じた時にスイッチを入れれば、そこに外の世界がある。

能動的に情報をとりにいくインターネットとはまた違い、ただスイッチを入れるだけでそこにもう世界が流れている。日中に多い生放送ならなおさら、リアルタイムの外の世界が、私の行動とは関係なくそこに流れ続けている。

そんな受動的なメディアであるテレビは、当時の私には最適な相棒だったのだ。

*  *  *

テレビの中の世界にまったくといっていいほど興味を持っていなかった自分だが、そんなわけで毎日ひたすら自宅安静の日々が続くと、見ていて落ち着く番組というのがちらほら出てくる。

そのひとつに、平日の朝に生放送している、とある生活情報番組もあった。家事や料理から社会問題、健康まで、主婦層が興味を持ちそうなテーマが日替わりでいろいろと特集されたりするものだ。

そしてこの番組、データ放送による双方向性を積極的にとりいれて、視聴者参加型のつくりが意識されている。自宅からリモコンのボタンを押せば簡単に番組に参加できたりする、アレである。

たとえばクイズの回答を募ってみたり、生放送中にふと出た話題でも「じゃあそれ、ちょっと皆さんに聞いてみましょうか」とアンケートを表示したり。ほかにも、全国の視聴者にリモコンのボタンを連打してもらい、一定時間で集まった連打数を競う企画など、活用の幅はけっこう広い。

ちなみに「今リモコンのボタンを押した人の数」は、テレビ画面上にも、数字や棒グラフの伸びとともにリアルタイムで表示されていく。

私が衝撃を受けたのは、そのクイズの回答数や連打数が、おもしろいくらい一瞬のうちにどどどどんっ、と増えていくことだ。

具体的な数は思い出せないが、少なくとも数百という単位ではなくて、たいていは数千、数万という単位だったと思う。

平日の朝9時前後という、会社員にはまず無理な時間帯にもかかわらず、日本全国各地で、何千何万という人が、お茶の間でリモコンを握り、今、ボタンを連打している。

(す、すごい……!)

目の前でズンズンと伸びてゆく棒グラフを見ながら、私は圧倒された。

仕事をしていたときには、思いもよらなかった世界だった。

*  *  *

とまあ、このエピソードはほんの一例に過ぎないが、妊娠して思い知ったことは「ああ、世の中ってこんなふうに時間が流れていたのだなぁ……」ということだった。

かつての自分が毎日仕事に追われながらPC画面と向き合っていた時間に、一方では毎日生放送でキャスターやゲストがしゃべり、それを毎日楽しみに待つ視聴者が大勢いて、毎日リモコンをポチポチしていたりしたのだ。

それは仕事をするのが偉くて主婦がヒマ、という意味ではまったくない。

なんといえばいいか、人それぞれ、何らかのいろいろな事情にもとに作られるその人の「日常」「当たり前の暮らし」があり、それは自分が考えていたよりも本当にさまざまな種類があったのだな、と気づいたのだ。

働いていると、必然的にまわりも働いている人が多くなり、属するコミュニティもその延長で、話題も仕事中心になる。異業種で交流してみたり、会社員もフリーランスも経験して、横断的に仕事をして多様性を知ったような気分になっていたけれど、なんと狭い世界しか見られていなかったのか。

あれ? でも、おかしいな。すでに子育て中の友人も大勢いて、話を聞いたりもしていたし、いろいろな生活があるということはもともと、当然のように認識していたはずなのに。

なぜ今回初めてこんな気持ちになったのか、と考えてみれば、それは結局、以前はいくら話で聞いて思いを馳せても“想像”であり、自分にとっては“非日常”、“特別”だったからなのかもしれない。

実際に自分が、来る日も来る日もそうやって毎日を過ごす、そんな「日常」レベルになってみて初めてストン、と腑に落ちて、「ああ、こういう時間を毎日過ごす暮らしも、たくさんあるのだな」と気づく。

*  *  *

人はいつも、自分の立場で、自分の目線でしか世界を見ることができない。

今の自分が中学生や高校生のときを思い返して近い目線になろうとすることはできるが、自分が体験したことのない立場は、ときに、そんな立場があることを想像すらしていなかったりもする。

そうして自分がなってみて、初めて気づくのだ。

もちろんそれは、妊婦だけじゃない。

専業主婦も、誰もがなるはずの高齢者という立場も、闘病する人も、介護する立場も、される立場も。世の中の舞台裏で、縁の下の力持ち的に働いているいろいろな職業の方も。親という立場も、祖父母という立場も。

そして私が“想像すらできていない”、たくさんの立場や目線も。

*  *  *

そこから見える世界は、自分がその立場になってみなければ本当に色をもってみることはできないのだな、と痛感する。そういうものだと思う。

ただ、今の自分とは異なるその立場から見える世界を、とりあえず想像だけでもしてみよう、とトライすることはできる。そこにどれだけ本気になれるかで、色の鮮明度は変わってくる気がする。

たぶんその色彩を鮮やかにするには、自分以外の日常を認めて、そういう世界も確かに「ある」ということを、身をもって実感しておくことだ。

想像しかできない世界も、むしろ想像すらできない世界も、たしかに「ある」。

そう意識すると、混じり合う世の中の色が、また違って見えてくる。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。