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ネットの大海原の片隅から

昨日、とても嬉しいことがあった。

今年の2月に(ひっそり)noteに書いていた、ある音楽ユニットについての記事を、なんと他でもないご本人に発見していただいたのだ。

それは夕方のこと。ごぉおおお、と台風の吹き荒れるなか、いざ保育園まで娘のお迎えに向かわんと、決意をかためて準備をしていたときだった。

スマホに届いた、1件のtwitter通知。

なんだろ〜。

そのくらいのゆるいテンションで画面を見て、しばらくフリーズした。

* * *

iima(イーマ)は、永山マキさん(vo)とイシイタカユキさん(g)による音楽ユニット。

そのマキさんご本人が、数ヵ月の時を超えてわたしのnoteを発見してくれた。とても嬉しい。同時にちょっと、気恥ずかしい。ありったけの思いを込めて夜に書き上げたラブレターが、その数カ月後に本人に届けられてしまった、みたいな。

もちろんそれは、熱意が変わってしまったという意味ではなくて。どんなことを書くときも、同じ気持ちをことばにするのに、深夜と昼間では全然ちがった文章になることがあるように、表現はうつろってゆくからだ。

* * *

マキさん、noteの記事シェアツイートにわたしのtwitterアカウントが入っていることに気づかなかったようで、最初にいただいたツイートのあとにつづけて、こんな投稿までしてくださっていた。すれ違って、わたしは最初のRTに反応していた。

そしたら。

なんだか嬉しいことに、こちらもこちらで喜んでくださっている。こんな言い方はちょっとうぬぼれすぎだろうけれど、おたがいに探していた運命のひとを探し当てたような、そんな気分で浮かれてしまう。

* * *

インターネットがこれだけ普及したいま、こんなやりとりは毎日数え切れないほど起きているだろう。よくある話。そう言われればたしかにそうだと思う。

でもなんだか、今回のやりとりは特に心に残った。

それはたぶん、自分が心から好きだと思うものに対して、その思いを正直にあますところなくつづった文章に対して、その相手からお返事をいただけたからだと思う。

仕事として依頼されたから興味をもったもの、ではなく、自分が能動的に書きたくて、紹介したくて、伝えたくて書いたもの。相手へ思いが伝わればいいな、伝わるかな、そんなどきどきや迷いもきっとどこかに込めて、ことばを探した文章。

あ、「ラブレターみたい」なんじゃなくて、普通にラブレターだったんだ。

* * *

そして、夜。

と、ご丁寧に、Facebookでの投稿リンクを送ってくださった。娘を寝かしつけたあと、ちょっとひといきの時間に、リンク先へ遊びにいってみる。

すると、ほんとうにマキさんのご友人の方々が、たくさんコメントされていて、「すごく共感」「素晴らしい感想に共感しっぱなし」「素晴らしい表現」「こんな文章を書く方にお会いしてみたい」とか言ってくださっているではないか。なんだ今日はエイプリルフールか何かか。ざんねん!全部うそでした!とかそのうち何かピエロみたいなのが出てくるんじゃあるまいか。

* * *

よく巷で聞くことばに「文章の上手下手よりも、だれが何を書くかだ」というものがあると思う。似たような文脈で語られることに、「情緒的な表現力は求められていない、情報をわかりやすく、簡潔にまとめることが求められている」というのもある。

とりわけ媒体がWebで、ジャンルがニュースなどの情報記事や、著名人のコラムなんかなら、それは確かに真理だ。

でもいつも、ちょっとした違和感を持ってそれを聞いている。それは、上記のことばが、(発信者側にその意図がなくても受信者側に)「すべての文章」に対して言っていると誤解されかねない文脈で語られていることも多い、と思うからだ。

個人的には、小説に出てくるような情緒的な表現を読むのが好きである。エッセイを読んでも、小説を読んでも、たとえば「喫茶店でコーヒーを飲んだ」ことだけを描写するのに、どうしてこの人はこんな描写ができるのだろう、とため息をつく。

小説を読んでいるときの自分は、おいしいものを食べているときと似ている。情報を摂取するというよりも、味わっているのだ。ことばの連なりをもぐもぐ噛んで、ときにじゅわぁっと広がる味わいに、うはぁ、とうっとりする。

* * *

だから何が言いたかったかというと、わたしは単純に嬉しかったのだ。

認めよう、ただの自慢みたいなものである。捉えるひとによっては面白くないかもしれないし、note以外のコミュニティで、今回の一連のやりとりを公開しようとは思わない。

ただnoteでなにかしらの「表現」をされているかたならば、自分がうんうん悩みながら生み出したものに対して、その表現力をだれかからいいねと言ってもらったとき、どれほど嬉しいか、共感してくださる方もいるのではないかと思ったのだ。

今回みたいな嬉しいことがあったとき、ここでなら話せる気がする、と思えるnoteという場所をたいせつに感じている。「ジャンルを問わず、表現するひとのコミュニティ」だからこそ持っている価値だと思う。

つづけられる原動力は、いつもそんなところにある。

これからも書き続けよう、と背中を押してもらえる。ありがたい。

* * *

マキさんからの最初のツイートを受け取った後、意を決して台風のなか、保育園まで向かった。ふだんは電動自転車なのだが、この日はバスで向かう。

行きのバス停に向かう途中で傘は壊れ、横から殴るように降る雨のおかげで自分も濡れねずみになった。

帰りはなんとかしてタクシーを拾い、暴風雨のなか、娘を抱えてやっとの思いで(ハァハァしながら)家へたどりつく。

ズボンは太ももにぺったりとはりついて、傘はもう使いものにならない。でも、それもチャラになってありあまるほど、元気が出たできごとだった。


(おわり)

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※2月に書いたnoteはこちら↓


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