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学校のなかだけが世界じゃないからね

って、将来自分にこどもが生まれたら言ってあげたい。

もし学校があわなくてつまらないと思っているなら、「だから大丈夫、何の心配もない! んじゃ他の世界を見にいこうか」というニュアンスで。

もし逆に、学校が楽しすぎてむしろ人気者になって有頂天になっているなら、「まだまだ世界は広いからね、油断するでないぞ、ははは!」って。

どちらにしても、世界は広いのだ。

そして私はその広さを、その価値観の多様さを、自分が中高生のときに知っていたかった、と思う。

*  *  *

こう書くとよっぽど嫌な思い出しかないのかと思われそうだが、そんなこともない。よい友だちもいて部活動にも打ち込み、それなりに充実した日々を送っていた。基本的には、いい思い出たちが多い。

でも、とくに中学生のころは閉塞感を感じることが多々あった。理不尽な校則、教師の常識を押し付けられる息苦しさ、女子の「グループ」意識にとうていついていけない自分。ああ、めんどくさいなぁ、って。

今のデジタルネイティブ世代ではwebでの交流が当然になって、状況はいろいろと変化しているかもしれない。小学生のころからすでにプログラミングを駆使して世界から評価を集めている子たちも複数いると聞くし、彼らにとって世界は身近なものだろう(頼もしいなあ!)。

それでもやっぱり、大多数のこどもたちにとって、学校と家、近所の公園や塾、が“世界”のほぼすべてなのではないだろうか? 

私たちおとなも、SNSなどの普及で手段は変われど、結局そこでやりとりする濃密な人間関係はリアルの知人がほとんど。またはきっかけがweb経由でも、関係を深めたい人とは結局リアルでつながることが多い。

*  *  *

悲しい、こどもの自殺のニュースを聞くと、いつも思う。

ああ、別の世界を体験してほしかったな……。世界は学校のなかだけじゃないということを、おとなが教えてあげられなくてごめんねと、勝手に思ってしまう。

こどもだけじゃない、おとなの社会でもそう。世界は、あなたが今いる場所だけじゃない。その人間関係だけでもない。

なんどでもゼロになれる。なっていい。

「だれとも話があわなくてなんか生きづらいなら、合う人がいるところへ行けばいい。大丈夫、話が合う人はこの地球上には絶対いる」。

そう断言してくれる人が、まわりにいたら、と思う。

それは自分が海外で少し暮らしたとき、痛感したことでもある。日本の常識が常識でないところで生活をして、「ああ、どうりであの環境では私、生きづらかったわけだわ〜」と思い知った。

「だからね、学校のなかだけが世界じゃないからね〜。ちょっと世界を見に行ったらいいと思うのよ母は。

何も通じない人とぶつかって必死でコミュニケーションとって、大自然にも圧倒されたらいいと思うのよ。

どれだけちっぽけな世界で、どれだけくだらないことで悩んでいたか、帰る頃にはわかるでしょ。いや、帰らなくてもむしろいいのよ」

いつか、そんなふうに言っていたい。


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