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教授室でカチカチ山 (エッセイ)#私だけかもしれないレア体験

「この話は、墓場まで持って行ってくださいね」
なんて言われたこと、ありますか?
── 私は時々(たいてい、酒がだいぶ進んでから)このフレーズを聞きます。
けっこう深刻な身の上話だったり、の後です。
「……もちろん」
もちろん、そう答えます。
そして、いくつか聞いた話は ── かなりレアな体験も含まれていますが ── もちろん、ここに書くわけにはいきません。私は(意外?)口が堅いのです。

では、自分の行動や体験に関してその発言はなかったか?
もちろん、等価なことを言ったことがあります。
それは、
① バレたら組織内や人間関係で困ること。
② 世間に知れたらとても恥ずかしいこと。
ところが、いずれのエピソードも、時の波に洗われて、だんだん《ネタ》に変わっていく。
そんなネタのいくつかは既に登場しています。
ま、自分のことなのでいいでしょう。

*****

年末に丸亀で大学研究室の先輩たちとの同窓会で、この話、憶えてます? と尋ねたら、

「ああ、そんなこともあったなあ」程度の反応で、
《自分で思うほど、他人は自分のことに関心を持っていない》
とわかります。

でも、当事者は違います。

*****

大学4年の冬。
当時、研究室ではこんな形の丸いガスストーブを使っていました。
(写真は、形が似ている市販の石油ストーブで、当時と異なり、はるかに安全な製品です。念のため)

形はこんなでしたが、当時は側壁が穴の開いた耐熱セラミックで、熱でほんのり赤くなっていた。

我々の卒論研究も2年先輩の修論研究も尻に火が付いた状態で、厳寒の中、毎晩遅くまで実験やデータ整理を行っていました。

その日、別棟での実験を終えた私は、学生部屋に戻りました。既に先輩も同期も机にかじりついています。
「Hさんは?」
尋ねると、
「A先生の部屋でタイプライター使ってる」
PCが普及する前の時代です。投稿論文の清書に使うタイプライターはA教授室にあり、大学院生は教授の帰宅後、鍵を使って入室し、勝手に使ってもいいことになっていました。

1年上でも年齢は同じH先輩の様子を見に教授室に行くと、手書き論文を横目にタイプを打っていました。
長丁場になるので、教授室のガスストーブも点いていました。
「おお、……さむさむ」
私はかじかんだ手を白衣のポケットから出し、ガスストーブにあたりました。
たぶん、Hさんに何かバカ話をして、忙しい彼に迷惑がられていたと思います。
前が温まってくると、背中側が寒くなります。今度はストーブに背中を向けました。
「ふう……」
すぐに背中も暖かく……

「おおい!」
Hさんが顔を上げて怒鳴りました。
私を指さしています。
「Pochi! せせせせなかせなか! 燃えてるぞ!」

私は、え、と肩越しに首だけひねり、振り返りました。

背中に火柱が立っていました。

「うわわわわーっ!」
両手で頭と背中を叩きました。
「脱げ脱げ! 白衣! それからセーター!」
Hさんの叫び声に上半身の着衣を脱ぎ捨て、床に叩きつけて足で踏み、火を消しました。

「……はあ、はあ、危なかった……」
見ると、白衣の背は逆V字型に焼失し、セーターも表面が焦げていました。
ストーブにあたっていた私が、背中も温めようと向きを180°変えた時、白衣が優雅に持ち上がり、筒状のストーブにふんわり覆いかぶさったらしい、と要因推定できました。

私の大声に、隣の学生部屋から他の学生もやってきました。
「これはまずいぞ!」
Hさんが指さす教授室の床 ── 安っぽいリノリウムの床材に白衣とセーターを叩きつけた所だけ、焦げ色がついています。
「……どうやって証拠を隠滅するかだな……」
私の卒論指導者で2年先輩のNさんが、ソファの下に敷いてあったカーペットを焦げ付き方向にずらすことを提案し、その場の全員で隠蔽いんぺい工作をしました。
「うーむ。A先生、この応接セット全体が動いたことに気付くかなあ……」
「……わからん。わからんが、そんな細かいこと気にしているようじゃ、いい研究はできんぞ」
などと勝手なことを思い思いに言うと、今度は部屋中の窓を開け放して、焦げ臭い匂いを追い出しました。
「うーっ、さむーう!」
「……大丈夫かな。バレないかな……」
私の手のひらは軽いやけどでひりついていましたが、髪はほぼ無事でした。
「ま、バレたらバレた時だ。その時は潔く謝るしかない。俺も一緒に謝ってやるよ」
N先輩に肩を叩かれました。

我々のボス(研究室教授)は、この時代とても貧しく(=大きな研究資金を獲れなかった、の意)、秘書を雇うお金を捻出できませんでした。
……もし秘書がいたら、間違いなく、この《変化》に気付いたことでしょう。

*****

時は流れ、A先生の米寿のお祝いの会でこのエピソードを話そうか迷った末、やはり「火事になったかもしれない」話題は、いくら遠い過去でもマズイ、と差し控えました。

《振り返ったら背中が燃えていた》
「カチカチ山の狸」の心境がわかる人間って、かなりレアですよね……。


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