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前虎後狼Workation旅;朝食から《自分のアタマで考える》へ(街で★深読み)

前回は:

ワーケーションのホテルは小樽運河のすぐ前です。
ひとり旅でもあり、5泊6日で毎夜のホテル夕食はカラダにもサイフにも良くないので、朝食のみ、という条件で予約しました。
ほぼ毎日、ホテル朝食(バイキング形式)、昼は外食、夜は部屋で仕事しながらおつまみ程度+ビールという食生活でした。

4月の中旬でしたが、朝食レストランではマスク着用は個人判断、ポリエチレン製手袋は用意されていますがこれも着用は各自任せ、という環境でした。
レストランの本音はおそらく、バイキング形式なのでどちらも客に装着して欲しいが、強制はできない、ということでしょうね。

《個人判断》とは、《自分のアタマで考える》ということなのですが、これを《強制されない ⇒ 必要なし》と自動的に捉える人もいますね。

朝食をしっかり食べて、後は夜まで軽く流そう、という私のような人間にとってうれしかったのは、自分で海鮮丼を作れるゾーンがあったことでしょうか。
さすがに、イクラ、ウニの両巨頭は姿を見せていませんが、甘エビ、サーモンなどまあまあ満足できる顔ぶれを載せていただきました。

ホテルの朝食バフェで時折置いてあるスパークリングワインの代わりに、小樽醸造の「市民用ロゼ」というロゼワインのボトルが並んでおり、こちらもいただきました。

数日間ですが、市民になりました!

さて、私は朝食レストランにマスクをして入り、入口のところにあったプラスチック手袋も装着しました。
見ていると、マスクをして食材を取る人は8割ほど、手袋をはめているのは5割ほど。

マスク装着判断は「不特定多数の人が口に入れる食材に自分の飛沫を入れない=加害者にならないため」が100%。
ひとり滞在なので食材を取りながら会話することはありませんが、くしゃみなどが出る可能性はあるので、万が一の予防的措置ですね。
食材を取る間だけなので、たいした負担ではありません。

手袋の方は、「被害者とならないため」が90%。つまり、手袋をしない不特定多数がつかんだトングの直接接触を避けるため。
残り10%は、やはりそうはいっても、スプーンとか箸を取る時に、自分の取り分以外にも触れてしまうので、その可能性を排除するため(=加害者にならないため)。
── 大げさな表現はご容赦ください。

私の後ろのアジア系海外観光客の親子(70代と40代の母娘風)が、マスクをせず、もちろん手袋もせず(こちらはどうでもいいのですが)、各食材の上空でおしゃべりしながら食材を取って行きました。
そりゃ、海外に来てジャパニーズ・フードを見ながら、あれは何、これはどうかな、と話しながら取る方が楽しいし、失敗も少ないですよね。
ならば、飛沫(要は「唾」)を食材に入れないような気遣いが欲しいなあ、と思いましたね。
レストランも、バイキング形式の時だけは、マスク着用をお願いしてもいいのでは、と思ったわけです。

《自分のアタマで考える》というのはとても重要なのですが、
「ルールを決めてくれた方が、悩まなくてもいいから楽」
という考え方、ありますね。

── わからなくもないです。

母の認知機能が徐々に落ち始めた頃、例えばレストランでの注文を他人任せにするようになりました。
《自分のアタマ》を使うのが面倒になったようでした。

会社勤めをしていた頃、かなり優秀な人が、幹部に昇格後、取引先から難題を突き付けられたあげく、《難題》を全て優秀な部下に丸投げし始め、《自分のアタマ》で考えなくなったことがありました。
この場合、「楽」とか「責任回避」もあったでしょうが、「自信喪失」が大きかったのでしょうね。

《自分のアタマで考える》ためには、《正確な情報が得られる環境》が必要です。

世界には、国家が(というより、独裁者だったり独裁政党だったりが)情報を統制し、国民が正確な情報に触れさせないようにしている環境で暮らす人たちがいます。
そんな環境で生活していると、《自分のアタマ》で考えて判断するよりも、《強制されているか否か》で行動を決めるようになるのかもしれません。
そうした国のリーダーは、国民が《自分のアタマ》で考えなくなることを真に望んでいる、ということなんでしょうね ── 私には不可解ですが。

私たちは幸い、《正確な情報が得られる環境》にいます。
でも、そんな環境でも、《自分のアタマで考える》ことを放棄してしまった人はいます。

わかりやすいのは、カルト的な宗教に洗脳されて《自分のアタマ》で考えなくなった人たち。
でも、そこまで行かなくても、例えば特定の政治団体の活動に徹頭徹尾大賛成する人、反対に政権党のやることなすこと全て口汚く罵る人、なんていますね ── 広義のカルトなんでしょうか。
── 人間というより、なんだか《自動化された機械》のようです。ひとつひとつの《案件》について《自分のアタマ》で考えるより、まとめて肯定したり否定する方が《楽》なんでしょうね。

最近では《SNSを使った洗脳》が加わりました。
このnoteでも、たまに見ますね:

地の文が、饒舌のようでいて、でも《自分の言葉で語っていない》
誰か他の人(陰謀論の教祖?広報担当?単なるPV稼ぎ?)の動画を貼り付けて、
『騙されたと思ってこれを見てください、全てわかります』

── なあんて書いてる。

《自分のアタマで考える》
それができない国に住むかわいそうな人たちのことを考えると、とっても貴重な環境なんだけど ── なんて思います。

この続きは……

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