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昭和の按摩 イズミ

Wikipediaに載らない、名もない明治生まれの人の聞き書き。
漫画の原文となったメモをまとめました。


大正10年(1921年)。
彼らは大したあてもなく東京府、上野駅に降りた。

栃木県の茂木(もてぎ)に産まれた次男坊は故郷の外に出る。
ヨシダという眼鏡の連れと、彼は東京へとやって来たのだ。

小柄で骨格がしっかりしている彼にヨシダは話しかける。
「なあどっちに行けば駅の外だ?こんなに人の多いのは厄介だなあ」
彼らの地元、茂木に鉄道の駅が出来たのは去年(大正9年)のことだ。彼らが田舎者というだけでなく、誰にとっても東京は新しく大きく育っていた。ヨシダは再び同郷の彼に話しかける。
「なあ…おれァ帰りたくなってきたよ。なあイズミよう」
人の群れは周りをどんどんと流れて行く。
名前を呼ばれてようやく我に返ったイズミは
「ともかく誰かに聞くしかないな。なにしろお互い下宿先にたどりつかねェと」
そして「まあほんと、一人じゃなくて助かったよ」とヨシダに歯を見せて笑った。

大正10年(1921年)の東京はまだ江戸の町並みを残していた。第一次世界大戦の一段落で昭和恐慌という陰がありはしたが、生きることに変わりはない。特に身分も財産もない、とびきりの平民であるイズミにとっては世界情勢も銀行の不況も大して影響はない。ただ食うために働くだけである。

あの日上野駅でヨシダと別れてから数年。イズミは体を使って働くのが性に合うと、按摩(あんま)、鍼灸(しんきゅう)の勉強をはじめていた。独学というわけにもいかず『浅見清四郎』という人の門を叩いた。

浅見は手が大きく、患者の体をさする時に「サーッ」と音が聞こえたという。のちに宮中へ按摩として出入りしたり、ベルリンオリンピックへスポーツドクターとして随行する人物である。また「あんま」という呼称が差別的であると問題になったことがある。あんまによる盗みや犯罪があったことも要因となり、当のあんま達からもイメージダウンな呼称の廃止を含めた賛否両論があがっていた。そういった状況下でついに大きな集会が行われ、会場はけんけんごうごうで中々結論に辿り着かない。そんな中、浅見清四郎が登壇し「悪いことをする奴が悪いのであって、あんまという言葉が悪いわけじゃない。私は自分の腕ひとつで人を楽にしてやれる【あんま】と呼ばれることを誇りに思っている」と述べ、多くの納得を得た。戦後にもGHQがらみでひと悶着あったが、結局現代の国家免許状にも「あんま」の言葉が残ることになった分岐点である。当時イズミは会場でこの様を見ている。

浅見の門戸で学びつつ、イズミは帝国大学付属病院の物療内科でマッサージ師として働く。東京での暮らしにも慣れ、昭和5年(1930年)すみという女をめとった。すみは茨城の農家の娘で、これもまた相当の按摩である。次の戦争の陰は迫っていたが、イズミはよく働いた。もともとあまり酒は呑めないが、少し酔った時には「一人じゃなくて助かった」が口癖のように出てきた。

そんな矢先、イズミは病院の統括とも評される真鍋に呼び出される。『真鍋嘉一郎』、彼が診察にまわる時には大名行列のように他の医師が付き従い、病院幹部のうちでは唯一博士号を持たずにのし上がった叩き上げである。真鍋は「イズミ君、東北にリハビリテーションを広めて来なさい」と命じた。人事権を持つ彼の言葉は絶対である。確かに未だリハビリテーションは日本では知られていない時代ではあるが、ともかくイズミは東京を後にする。

宮城県仙台市。今では東北の中心都市といえるが、テレビもない戦前当時の感覚ではどんな所かも見当がつかない。とにかく遠くの田舎という認識しかイズミは持ち合わせてない。蒸気機関車に乗った長旅の末、到着した「仙台」というその田舎は春の雪が降っていた。イズミはその光景を「これはえらいとこに来たもんだ」と見渡したという。

その年、昭和5年からイズミは国鉄の仙台鉄道病院で働き始める。場所はどこでもやることは同じ。傷んだ人を両手で癒やし、楽にし、または社会復帰の手助けをする。「リハビリテーションを広める」という大層なことにどれだけ役立ったのかは分からない。それでも自分の医院を持つまでの30年間、イズミは同所で力をふるい続けた。

昭和20年、子供は5人に増えたが、妻すみは病床に伏せっていた。
仙台大空襲
敗戦の色濃い7月9日の真夜中から10日にかけて仙台は大きな空襲を受ける。仙台の中心部、鉄道病院近くの宿舎にいたイズミ家も例外なく。焼夷弾一万発による絨毯爆撃で仙台は一面焼け野原となる。爆弾の降る中、一家は逃げ延び、五橋中学校での避難所生活となる。戦後間もなく妻すみ没。

5人の子ども達は見まね程度の按摩の技術が伝えられたが、4人は本職とする事はなかった。それぞれが自分の道を見つけ、仙台から発っていった。
継承したのは末弟。わたしの父だ。

戦後より、按摩は流派を名乗ることを許されていない。
それでもルーツを辿るなら、
日本に2つあった按摩流派のひとつ吉田流。吉田久庵二世に浅見清四郎が学び、
その浅見の最後の直弟子としてイズミが入門。そして父へ。

これがわたしの父方の東北でのはじまりの物語。

「ポッカ(一人)じゃなくて チーネ(助かる者)」へと続く道のはじまり。

【後日談】

結果を言えばわたしは按摩、鍼灸師にはならなかった。
祖父母、父と続いた家業は潰えた。

ただ幼い頃より幾ばくかの薫陶を父から受け、
さらに日本最強最硬の肩こりをもつ母という修行相手がいたことにより、技術だけは磨けている。
祖父や父と違うのは、わたしのは生業の技術ではなく、
楽にするだけのものということだ。一日に十数人さばくペース配分も分からず、他分野と連携できる専門知識も免許も無い。

さらに自分にそんな技能が備わっていることを自覚したのは大学3年生の頃。
友人が頭が痛いと言うので少し楽にしてあげたら
「はぁ!?ポッカちゃんミラクルハンドじゃん!」と驚かれた事による。
そう言われると思い当たる節がないではない。
そうか、他の家では指圧や経絡や柔道を教わらないのだ。
小学校の時「痛がらせてみせろ」という男子の腕を関節と逆にひねり上げ「バカ!」と逃げられたのも偶然ではない。今まで揉んできた各所のじいさんばあさん、学校の先生が「気持ちいい」と言ってくれたのには一片の真実が混じっていたのだ。どうやらすでに親指の形が違う。

もうひとつ師父らと違うところは他人の苦しみに共感しすぎる点だ。
突き放して患者として看ることができない。その人の身になって「これだけ動けないでいたらここが苦しかろう」という思い入れと勘がわたしのやり方だ。何事もそんな感じなので、やることなすことが生業に結びつかない。生来の性分とはいえ、我ながら商売下手であると苦笑しかないが、損だとも思わない。わたしらしいツギ方が誰かを癒すかも知れない。

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