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うつ病について(3)

うつ病になって思い知ったことの一つに過去の体験が自分に与えている影響だった。所謂、「生育歴」のことで、私は自分の成育歴にそれほど疑問を持っていなかった。「何もおかしな育ち方はしていない、いわゆる普通に育ってきた、普通の両親の普通の家庭に育った普通のこどもだ」・・・と思っていた。「普通」が何を指すかはともかく、「人と少し違うところもあるけど、なんとかやっている」という感覚があった。結婚して子供ができて家を買って、大卒で新卒入社でサラリーマンになって仕事をして・・・自分では、周りに合わせたり、集団行動はすごく苦手ない時期はあったけど、世間で生きて行けている、なんとか折り合いをつけている、と思っていた。

しかし、うつ病になって暫くしてから、私は如何に「自分のことを知らなかったか、自分の生きた過去に対して無関心を装い続けてきたのか」を痛感した。その原因を一言で言えば「強烈な自己評価の低さ」があり、その根本は「自分は『どうでもイイ』存在」という解釈を自らに対して持って生きていた。
この「自分のアイデンティティ」に気が付かなかった、ということに気が付かされたのはこの2〜3年ぐらいで、カウンセリングと認知行動療法によるところが大きい。(巷で自分一人でできる認知行動療法みたいな本が出ているが、私は一人でこれができるとは到底思えない。)

カウンセリング

こうした気付きは生活に色々と影響をもたらした。良い悪いという観点はあまり意味がないが、今はこの気付きがあって良かったと思う。
うつ病になってから、過去を振り返って「良かったと思う」なんて評価ができる出来事は、ほとんどない。あったとしても後で自分の理想を言い聞かせてただけだった幻想だと気が付いたりする。
ともかく、この気付きが無ければ、もっと酷い生活を送っていたか、もうすでに死んでいた気がする。少なくとも、気づく前より良くなっていることは一つも無いだろうと簡単に想像できる。
気が付かずに今に生きているとすれば、それを想像するだけで、ゾッとする。

この「気付き」に至ったのは、カウンセリングを受けてからだった。カウンセリングは主治医と話をして受ける事に決めた。今から5年くらい前、うつ病の治療に「認知」も加えてゆくのも一つかもしれない、という主治医の言葉から始まった。
診断当初からストレスを発散することを勧められていたが、できていなかったことから始まり、なぜ自分はストレス発散が苦手なんだろうという疑問があり、そのうちに「なにを見て何を思うか」を感じずらいことに気づく。そんな話を主治医と繰り返し、認知の「意味づけの見直し」について話が進んだ。
こうした主治医とのコミュニケーションがカウンセリングを始めるきっかけとなった。診察のたびに話に上がる「ストレス発散」についても、「ストレスの認知が極端に苦手」という、そもそもストレスコントロール以前の話であったことが、後にカウンセリングを通してわかってきた。

カウンセリングの話をすると、精神を病んだことがある人や、そうでない人でも悩み事を抱えている人から興味を持たれることが多い。しかしカウンセリングに効果を認める人は少ないと感じた。

  • 「こっちから話をしないといけない」

  • 「なにを話せばいいかわからない」

  • 「話しても意味がない」

  • 「すごく嫌な感じだった」

  • 「馬鹿にされている感じがしたし、興味無さそうだった」

挙げるときりがないが、ともかく否定的な立場である人達に一貫して感じられるのは、「カウンセリングを受けても意味がない」というイメージだった。意味の有無というのは、結局のところ「具体的に治癒される」というイメージを持てない、という事だろうと思う。要するに「治らない」という事だろう。

うつ病を患って10年以上経って完全な治療という状態を既に想像できないので、何とも言い難いのだけれど、カウンセリングでうつ病に掛かる前に戻ることは無い。そもそも、精神疾患の強烈に難しい事の一つに、現状把握自体が凄く難しいというのがあると思っていて、カウンセリングのような行為は、時間がかかるけれどこの現状把握を行う手段だと思う。殆どの患者は、現状把握ができない。今ある状態を客観的に把握して分析できる対象とすることができない。本人は一番できない。そもそも感じ方や考えの根本の部分で障害が発生しているので、一人の力でこれを行う事はできないし、精神科医も、この点について一人の患者に対して深堀する時間もない。基本的に問診でしか病状を知る手段がなく、患者ごとにストレスが発生するきっかけが違っているので、対処療法として薬を処方する、生活指導をする程度がそもそも限界のはずだと思う。

カウンセリングを受けることは、患者にとって非常にキツイ。まず、カウンセラー(私の場合は臨床心理士)と自分が話ができる相手なのか?という大きな壁がある。話したくならない相手には話せないし、誰にでも良い顔をするようなセールスマンの様な人間と話したいかと言えばそうでもない。日常的に「話しやすい人」がカウンセリングの相手として意味があるわけでもない。話しやすいからと言って、分析が進むわけではないからだ。

この点については、患者にも相応の動機付けは必要になると思う。患者であるからと言って、常に受け身でいればよくもないし、すぐに結果は出ない。「あんなにいろいろ話したのに、カウンセラーは「うんうん」とうなずくだけで、自分だけ話していてバカみたい」という話もよく聞く。傾聴という意味ではカウンセラーには、その「うんうん」と聞く姿勢は絶対必要ではありつつ、相手によっては不十分である印象しか残らず、次に続かない。カウンセラーも人間だし、人間は人の話を満遍なく平等に聞き続けるという事は恐らく、本来不可能だと思っている。だから、カウンセラーとしての教育を受けたとしても、微妙なニュアンスや態度は患者に伝わったり、患者も知らない間に何かを受け取ってしまい、それが後味を悪くすることもあるだろうと思う。
ここで重要なのは、患者はカウンセリングで何を得ようとしているか?という動機付けだろうと思う。私の場合は最初にそれを決めた。いつも話が発散すると、カウンセリングの目的について共有を行い軌道修正を行った。もちろん、ストレスが高く目的とズレた話があった場合でも、必要であれば話を聞いてもらったが、その後、カウンセリングが果たす目的について共有を行い、話が戻っていった。目的がある程度、達成されたときには、次の目標が生まれていた。(実際、ここで辛いのは目標が達成されても『嬉しさ』や『治癒』の感覚は私には無かったという事だ。しかしそんな感覚以上に大きく絶対的に生まれた感覚が『気が付く前の自分に対する強烈な恐怖感』だった。)

なぜカウンセリングをうけるか?

カウンセリングを「愚痴を吐く場所」、「薬の様な効果のある場所」、「スグに結果が出る場所」だと思っていくのは、ムダ金だろうと思う。そもそも保険が効かないことが殆どなので、長続きしない。患者側がカウンセリングになにを求め、主治医などとカウンセリングを行う意味やその目標などを意見交換して臨むべきだろうと思う。
それでも、医者も安易に「カウンセリングをうけたらいいのでは?」と勧めたりもする。恐らく、「この患者は薬だけじゃダメだろな」と医者も思っていたり、診察の時間がカウンセリングの様な時間になるのを避ける為だろうと思う。医者は症状に対する対処が目的だから、薬が必要と判断すれば薬を出すし、カウンセリングが必要であればカウンセリングを勧めるが、それ程、ガイドラインがあるモノとも思えない。それにカウンセリングの内容について詳細に主治医が知ることもない。(そういう性質のものでもない)

自称「カウンセラー」や、資格だけの「カウンセラー」も多いし、臨床経験があったとしても、やはりカウンセラーとして機能する人はなかなか難しいと思う。外科や内科以上に本来、人間の感情に近い場所で行われる行為だろうと思う。金額が高かったり、有名だから良いカウンセラーというワケでもないし、患者もカウンセラーをコロコロと変えて良いもんでもない。

最初に記憶の話を少ししたけれど、カウンセリングで扱う一番の問題は、こうした「記憶されている過去」だと思う。患者の今の心理状態を作り出している、恒常性がどんな経験から生まれたのかという事を会話の中の抽象的な世界観を共有し、意味づけを行ってゆく。意味づけ自体も、実際にはカウンセラーが全て「この経験は『愛情不足』ですね」みたいにいうワケでもなく、患者本人が自分の言葉で気が付いてゆく。そういう意味では、カウンセリングは心理的な自助努力と自己治癒力が醸成されることが期待される場所なのだろうという感じがする。

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