自己紹介②-希望と絶望の始まり
初めまして!私のnoteを読んでいただきありがとうございます。
株式会社ジーニーでPMM(プロダクトマーケティングマネージャー)を担当している水谷@ShoheiMizutaniと申します。
この記事では、簡単な自己紹介を書かせていただきます。
⚠️ちょいちょい垣間見えるオタク気質な部分が苦手な方は、ここでページを閉じてください。
前回自己紹介記事はこちらです👇今日は前回の続きを書きたいと思います。
なぜ私がマーケティングという仕事をするようになったのか?前編②
では、ここから続きをお話ししたいと思います。
①ある日突然若者ケアラーになった私
家族の介護や身の回りの世話などを担う人を「ケアラー」といい、特に18歳未満のケアラーのことを「ヤングケアラー」、18歳以上〜30歳未満のケアラーのことを若者ケアラーというらしく、当時の私もまさにそうでした。
夏の暑さが残る9月中旬。(岐阜県は内陸の海なし県で熱がこもりやすく全国でも有数の猛暑地帯として有名で日によっては40°を超えることも珍しくありません)
いつものように会社で仕事をしていると、普段は鳴らない私のデスクの内線が突然光りました。
「お母さんが病院に運ばれたらしいから、すぐ行って!」
仕事の最中に鼻と口から大量の血を突然倒れ大学病院へ運ばれていたのです。
高血圧や動脈硬化が原因で起こる脳出血でした。
医師からはハードワークを重ね、生活リズムが不安定になりストレスが溜まった結果だと診断されましたが幸い、一命は取り留めました。
しかし、右半身麻痺の後遺症は残ってしまい、車椅子生活と美容師からの引退を宣告されることになった母は本当に絶望していたと思います。
22歳の頃同じ美容室で働いていた父と結婚し、23歳で私を出産、25歳から自分の店を構えて22年間美容師一本でやってきましたし、なんといってもまだ40代前半で人生まだこれからという時に、
ある日突然「あなたは今日から障害者です!仕事やめてください」と言われて受け入れられるはずないなと今でも思います。
リハビリをすれば日常生活は問題なくおくれると言われていましたが、自分の好きな仕事と未来を奪われた人間は本当に見てられないくらい抜け殻になります。
そして母が入院して2ヶ月。日暮が早くなり上着なしでは歩けないくらい冷え込む夜が続く季節になったある日、心筋梗塞で今度は祖父が他界しました。
「死はいつもそばにいる」
テレビ東京系のアニメ『カウボーイビバップ』の主人公のスパイク・スピーゲルのセリフですが、この時ほんとにその意味を噛み締めました。
本当は、ちゃんとお葬式をしてあげたかったのですが、当時の我が家にはそんな金銭的な余裕も精神的な余裕もなく、火葬場へ直行。
人って結構よく燃えて、何十年もかけて成長した生物としての肉体が一瞬で灰になる様子は、なんとも言えない虚しさがありました。もっとおじいちゃん孝行したかった…
母の入院と祖父の他界が続き、気丈に振る舞っていた父のメンタルも限界に達し、母と切り盛りしていた美容室を休み、寝込んでしまうことが増えました。
深くは覚えていませんが、いろんな種類の薬を飲んでいた気がします。
そんな状態でも、生きるためにはお金が必要です。
当時無知だった私たちは、高額療養費制度の申請を出すのが遅れ、50万円近い医療費を一時自己負担で賄わなければいけませんでした。
医療保険に入っていたはずだったのですが、調べたら私が高校在学中に解約をしそのお金を学費や運転資金に充てていたようでした。。。。
無知ってほんとに罪だなと思いましたし、今でも思っています。
少しでもお金を稼がなければならず、
4つ下の弟も高校生活を送りながら、牛丼チェーン店のバイトと土日は引越しのバイトを掛け持ち、
私も特別に副業を会社に承認いただき平日夜と土日は地元のスーパーの品出しバイトで稼ぎを増やしていました。
それでも、一家4人で生活するには結構ギリギリ。
自分や弟の未来なんて描けるはずもなく、先の見えない不安だけが、黒い水のように自分の中に溜まっていきました。
母が入院してから半年、弟も卒業し大学へはいかず就職して家計を支えてくれるようになり父も少しずつ仕事ができるようになりました。
※この時、高校で学んだ簿記の知識がめちゃくちゃ役に立ちました。BS、PL、キャッシュフローがこんなに大切だったとは、、、、
そんなある日、リビングで家計簿をつけていた私に弟がため息交じりに言いました。
「兄貴、これからどうする?」
ほんの2,3秒、考えた私はこう言っていました。
「大丈夫、俺、東京行ってもっと稼いでくるよ」
そんな、中身のない会話はすぐに現実になりました。
23歳の誕生日。私は一人東京で迎えます。
②色んな意味でギラギラしながら上京
人生でおそらく一番フワフワと地に足がついていなかったのがこの時だと思います。
私は、夜は六本木と赤坂に店舗をもつラウンジのバイト店員、
昼は同じエリアにあるITベンチャー企業でWEBデザインとプロモーターのアシスタントをしていました。
掛け持ちではありましたが、田舎で正社員をしていた頃の3〜4倍は手取りでもらえていたので、実家へ仕送りしても物価の高い東京でギリギリやっていけました。
私を拾ってくれたのは、企業のプロモーションLP(ランディングページ)作成やメールマガジンの制作やコンサルを行っていたITベンチャーの若手社長でした。
名古屋に出て東京へ向かう新幹線の中で、東京での働き先を探す私は、求人票よりも、年収1億も夢じゃない!的な起業家セミナーの動画を見ていました。
(やっぱりクズでごめんなさい汗)
YouTube動画の中にいたその起業家は、当時稼ぐしかなかった私にとって、とても眩しくうつりました。
「俺も、1億円稼ぐんだ!これからはインターネットだ!」(いや、これからインターネットって遅いだろ!っていうツッコミは今だからできるw)と、
すぐに感化された私は、すぐにその起業家がオフィスを構える六本木のビルへ飛び込み勝手にオフィスの扉を開け、
近くにいた社員さんに社長に合わせてください!と直談判していました。
(ちなみに、この時声をかけた社員さんがその後私の上司になりますw)
※完全に危ない奴、、、よく通報されなかったな。
そして、ワインレッドの壁紙とシャンデリアがジャラジャラした社長室に案内され、動画のあの人が私の前に現れました。
「俺も、1億円稼ぎたいです!ここで働かせてください!」
自己紹介もしないまま、私は自分の都合だけでそう叫んでいたのを覚えています。
「月5万円なら雇ってあげてもいいよ」
初任給はまさかの5万円。しかも保険も、交通費手当も一切なし。
まあ、今から考えたらパソコンも持ってないのにWEBマーケの会社に飛び込みできて、自己紹介もしないで働かせろって奴はそういう待遇だと思う。
でも、拾ってもらえた恩は今でも感じています。
その方自身は後に世間でいろんな言われ方をして、紆余曲折を辿るのですが個人の名誉と売名行為になりたくないのでここではその方との詳細は割愛しますが、
兎に角しごかれました。
これだけ見ると、なかなか社蓄なんですけど、実際はタクシーでの移動中とかご飯食べながらとか土日も含め、マーケティングとか事業とか
「社会にとって必要な価値は何か?」を刷り込んでいただきました。
今から思うと、How toからではなくイシューから教えてもらえたのは財産になってますし、見える世界をグッと広げるための根本になったと思います。
東京での最初のキャリアは、私にタフネスと考え方のベースを作ってくれたと思います。
とはいえ数ヶ月死に物狂いでやったからと言って、
マーケターとして仕事ができるか?というと現実はそんなことなくて、
むしろ、社会にとって必要な価値はなにか?を学習したおかげで、その素養が何一つ自分には無いことを知りました。
そんな簡単にサクセスさせてくれないのが、社会の残酷さ…
こんなに良くしてくれた恩師の下で初めて大きなプロジェクトを任されて、絶対失敗できない状態の私は、やっぱり失敗します。
最初のプロジェクトで億単位の損失を出したのは、あの会社では後にも先にも私だけなのではないかと思ってます😓
次回、第3回目(4回完結の予定)のnoteは、この続きから書こうと思います。
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