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「生きてこの世界を見たい」90歳の友

集まること、会って話すことが難しいなか
オンラインで礼拝の配信を続けつつ
週に何回か、教会の礼拝堂を開放している。

「お散歩途中にどうぞ」
「立ち止まり、座る時間を」
そんな言葉を添えての”開放日”だ。

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先週、”開放日”ではない時間に教会のベルが鳴った。
玄関を開けるとそこに立っていたのは
教会に通い続けてくださっているもうすぐ90歳になる男性。
私たちは半世紀も歳の差があるけれど
互いに「友」と呼び合う間柄。

どうやら時間を間違えてやって来たらしい。
せっかく来たので、礼拝堂でお祈りをしたいという。
誰もいない礼拝堂、
座席の間隔が広がって、がらんとしたそこに案内する。

しばしの祈りの時間
私も隣に座り、沈黙を共にする。

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「アーメン」

深い息によって沈黙は終わり
緩やかに、語らいが始まった。

「生きてこの世界を見たい」

そう彼は言った。明日への憧れをその目に湛えて。

同世代との共同生活の中では
「お迎え」を待っているという人も少なくないという。
互いに語らう言葉が、
環境と認知の両方に阻まれて届いていかない、
そんな風に感じさせられるいまだから余計に
今日が億劫に感じられることもあるのかもしれない。

でもそんな時だからこそ痛感する
語らうことのできる喜び
届けよう、届こうとする
真実な言葉のありがたさ。

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効率化という激流の中で
削ぎ取られていってしまうもの
恐れと不安の中で
遠ざけてしまっているもの

立ち止まり、共に座ること
一緒にそうしてくれる誰かが
隣にいるということのゆたかさ。

「贅沢な時間」
重なる言葉。

2枚のマスク越しに
2メートルの距離を超えて
心は確かな温もりを感じていた。

明日の世界はここにある。
命はここにある。
いつも、私たちの間に。

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