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古き良き時代(?)

ある人のnoteを読んでいたら、包丁を研ぐ場面が出て来て懐かしかった。途端に故郷の町の光景が浮かんだ。

私は母が素っ頓狂な人だったので全国の各地を転校しまくっていたが、その細切れの滞在期間を足し算すると、圧倒的に熊本が多い。高校時代も熊本市内で過ごした。

喧嘩ばかりしていた祖母と母は一緒に住んだり別々に住んだり、熊本市内に居る時ですら転々として落ち着かない時代だったなと振り返る。

しかし、思い出されるのは、やはり祖母の家、つまりは母の実家でもあるのだが。
近所には桶屋さんがあって、木製の桶が量産されていたが、もっと多いのが刃物屋さんだった。
包丁が量産される街だった。いや、染め物も盛んだったか。

私は幼い頃からやんちゃで親や祖母に殴られてばかりで周囲に『肥後もっこす』と呼ばれた。(←褒められていると勘違いしていた。)熊本の女性のある性質をこう呼ぶ習慣あったのだ。でも、母や祖母ほど争いは好まなかった。

その時代は堅気も堅気で無い人も警察も、夜は友達。喧嘩もするが仲直りもする。そして、一緒に飲む。私はその寄り合いによく参加していた。
時代のせいなのか地域柄なのか、学生陣も多少暴力的なのはあたりまえだったが、争いに刃物を使う者は居なかった。

何せ、刃物が名産の町なので、それを出す者が居ようものなら『あんたぁ、そやつは危なかよ。切れるけん!』と皆に窘められていた。『そうばい!よぉー切れるけんね!』と。

あるいは刃物を作っている人間も多かったので、傍で飲んでいたヨレヨレ&ヨボヨボでガリガリのおじいさんが、突然コップ酒をテーブルにカーン!と置き、『おっが(俺が)作った包丁ば 何に使うとか?!こらぁ!だご打ちすっぞ!(団子のようになるまで袋叩きにしますよ。)』と叫んで立ち上がる始末だった。

周辺も「ほんなこてっ!(本当だよ。まったく。)」と口々に叫んで、詫びを入れさせられるという始末だった。
それくらい皆、刃物が良く切れるということを知っていたのだ。そんなあたりまえのことを。

幼少のみぎりは詰まんない町だなあ~。早くどっかに逃げたいな~なんて思っていたのに、こうして思い返すとつまらないどころか、実に面白い街だったのだと思う。

刃物もそうだが、桶を作るときに、どうして一枚一枚の板は真っ直ぐなのに仕上がりが円形になるのか?ということも不思議だった。

いつも近所の職人さんたちが、包丁を打ったり、日本刀を打ったり、桶を作ったり、鉋をかけたり。
その傍らで悪ガキが集っては瓦を何十枚も重ねて空手気どりで割って競い、それがすぐに大人たちに見つかってげんこつを食らったり。

昭和のその街、その時代は、今思えば、とても暴力的で、とても安全な時代だった。

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