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知るということ

「自分は曲がったことが嫌いなんです。」と言う人に「ああ、そうなんですね。」と他の誰かが言う。

要するに、相手が曲がって、迂回して、よけて行っている。皆、やることがあるからだ。

「聞いてますか?自分は真っすぐで誰よりも真面目なんです。だから自分と同じように真面目で損をしている人の役に立ちたいんです。」

それは素晴らしい。是非とも頑張って下さい。と心から言っても満足はしてくれない。心理の学校へ通っている時代に知り合った同じくカウンセラー志望の方だった。

「それなのに自分にはどうしてクライアントが付かないのか。世の中、間違っている。」と怒っていた。

それは世の中が間違っていて自分が正しいという場所から一歩も動かないからだろう。誰かの役に立ちたいと思ったら、時には背伸びしたり屈んだり、横から話しかけたり、その人の世界に入らなければならない。侵害するのではなく、尊んだままお邪魔する。ちゃんと靴も脱いでね。

要するに、人と関わるということは、真っすぐだ(と思い込んでいる)自分を曲げることだ。でないと刺さるからね。刺されたくないから、皆迂回する。それぞれの大事なものがあるから。

ところが、真っすぐだと思い込んでいる歪んだ人は、突っ込んで来ながらクネクネ、ザクザクと色んな人を傷つけた上で「ショックだ。傷ついた。」と主張するから大変だった。

職場の人や友人知人、親に社会、色んな存在の悪口を言い続けて、怒りに全てを持って行かれている。その怒りは誰にも癒せない。

「自分は誰よりも真面目だ。」という人の真面目の定義は「着飾らず地味でいること」だった。いつまで経っても、とてもざっくりした分類だ。

その人は、人間関係において、誰よりも不真面目だった。

そして、冷静であることの定義は「感情がないこと」だと思い込んでもいた。喜怒哀楽がない人は誰も笑わせることはできない。幸せにはできない。

一方で、揺らがない人というのは、見た目は逆にユラユラ揺れて、どんなふうにでも曲がる。柔軟に。それは、かの人が言う不真面目などではない。それが出来るのは、どんな形になっても、自分に戻って来れる自信がある人だから。

誰でも、自分を曲げないでいようとすることは案外簡単に続けられる。学ばなければ良いだけだから。

けれども、もしも30,40,50になってもそのままで、他者の痛みを想像しようとしないのだとしたら、真っすぐも歪んでいるも何もない。それは自分がないということだから。

他者がいないのに自分がいるわけがない。

幼い類型論はともかく。自分を見つめないのに他者が見えるわけがない。

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