珈琲フロートではない
子供の頃に住んでいた田舎には、何故だか素敵な喫茶店が多かった。田舎なのに。
自宅の裏側にあった杉の木という名前のお店もそのうちの一つだった。こじゃれていたわけでは無い。
ここの場合、何が素敵か?というと、すごぶる珈琲が美味しいという点に過ぎない。ああ、よくよく考えてみればそれだけだ。
でも、きちんとした座り心地の椅子で静かで落ち着いていた雰囲気だった。まあ、そりゃあ田舎だから。
高校生くらいまでの日々を思い出すと、何故だか季節ないつも夏。不思議だな、そんなはずないのに。
母が珈琲好きなせいもあり、当時の田舎ではそんなに数が出回っていなかった珈琲メーカーで淹れたての珈琲を飲んでいた。子供だったのに。
セミがミンミン&ジージー鳴いている暑い夏の日。一旦その店の中に入ると、いつもシーンとしていた。あのお店の珈琲フロート、美味しかったなあ。
突然だった。
何十年も経った今日、この暑い盛りの午後に『ああ!珈琲フロートが飲みたい!あの珈琲フロートが良い!でも暑い!飛行機に乗ってまで行きたくない!』と喚いているおばさんに、Kちゃんが『その珈琲フロートは二度と飲めないと思うんだよね。時代とか味覚とか色んな意味で。でも、近くで珈琲フロートがあるお店を探そう。』と諭して来る。
ソファーの上でアザラシのようになって駄々をこねていた私は近隣の町で珈琲フロートが飲める店を検索した。しかし、無い。ファミレスの珈琲フロートを除いては一軒も無い。
再びソファーの上に打ち上げられたマグロのように横たわり動かなくなってしまった私に、Kちゃんが『じゃ、せめてご飯食べに行こう。地ビールが美味しいって言ってたあそこ。』
あそこというのは、自転車で10分ほど行ったところにあるファミレスに毛が生えたようなお店なのだが、この辺では一番好きな店。
ドリアとかラザニアとか、パスタとかジャンバラヤとか、そしてまたパスタとか・・・。全てのメニューに良い香りのオリーブオイルがかかっている気がする。要するにイタリアン寄りの洋食が好きなのだろう。
マグロだったりアザラシだったりトドだったりして一日を過ごす予定だったが、ちょっとそこまでお出かけすることにした。
そして、”久しぶりに来たなー、またエビとアボカドのパスタにしようかなー?”と、ウキウキとメニューを観ていたところ、アイスクリームに熱いエスプレッソをかけて食べる一品を発見。舌を噛みそうなレシピ名だったので、もはや何という代物かは忘れた。
『こんなのは邪道だ。もちろん珈琲フロートではない!』と文句を言っているのに、スっ!と店員に手をあげて注文する私の姿は、おそらく目の前のKちゃんを不安に陥れたことだろう。
かくして互いにドリアやパスタを食べた後にそれは運ばれて来た。
『注いであげるよ。』と言ったKちゃんが、エスプレッソを一滴ソーサーに落としてしまい激しく動揺している。おそらくは鮫のような目で私が観ているからだろう。
結果的に、美味しかった。何せエスプレッソ自体が美味しいから。
そして食べているんだか飲んでいるだか分からないそれをスプーンで口に運んでいるうちに気が付いた。
あ、これ、意外にも似ている。
あの片田舎の喫茶店の珈琲フロートに。いや、あれを超えて来た。
Kちゃんの言う通り、杉の木の珈琲フロートはもう飲めない。多分とても良い豆で丁寧に挽かれていたのだろう。そして当時はエスプレッソなんてものは知らなかったのだけど、多分濃いめに淹れてくれていた。
歳をとり、色んなものを食べたり飲んだりして来て、時代も変わり、もう珈琲フロートで感動することなんて事はないだろうと思っていた。
でも、今日、このファミレスで普通に感動した。
『一口、頂戴。』と言ったKちゃんも感動していた。
最初は『これ、熱い珈琲である必要ある?』とか色んなことを言って文句つけていたのに、普通に美味しかったのだ。
過去を忘れようとか捨てようとかは思わないけれど、人生は更新されていく。
ささやかな願いを叶えて行くことで、また新しい何かに出会う。
単なる珈琲フロートへの欲望でそんな大袈裟なことを感じていた。
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