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年末のご挨拶(ちょっと長いよ)


昨日に続き、今日もお買い物に行きました。
昨日は再びユニクロへ。ヒートテックとアイロン要らずのYシャツを追加購入。本日はコーナンへ。長靴にカッパ、先端に鉄の入った作業靴。
いずれもニュージョブ用。実はワタクシ、書いてばかりじゃアレなのでプチ肉体労働に奔ったわけ。顧客対応もありいの。

ついでに新年の食い物も。エビチリや数の子など。
しかしコーナン前のスーパーってクソ高いよなぁ。数の子、ちょっぴりでしぇん円。千円もするとばい。
食い物買うならやっぱダイエーかコープ神戸よね。これも不況のせいなんでしょうか。

そんなこんなで、いくぶん硬いお話を。

某哲学系YouTuber、じゅんちゃんによる哲学講義を本日も行います。

https://youtu.be/dPKkPAhiy68

当該のチャンネルは基本、政権と自民党、維新やクズウヨにツッこむ動画。それもさることながらより面白いのは京大の篠原先生や関学の冨田教授ほか、政治的あるいは経済的碩学とのコラボレーション。

上掲の、篠原先生とのコラボでは「資本主義について」。
篠原先生は全く政治的ではないが、資本主義の限界を説いたマーク・フィッシャーあるいは環境問題のティモシー・モートンを引用しつつ、現今を語る。

ここで出たのがヒップホップの雑誌『Ele - King』。Kamuiなるラッパーについて、小林拓音なる編集者が、本誌に文章書いてたそうな。
いわく、

「リアルとはなにか。
音楽批評家のサイモン・レイノルズは、ヒップホップにおける『リアル』にはふたつの意味があると指摘している。ひとつは、妥協せずに信念を貫くこと。いくら自分の音楽を広めたいからといって、産業側の都合にあわせてメッセージを曲げたりはしないということだ。もうひとつは、ヒップホップが資本主義経済の不安定さや制度的な差別、警察による監視やいやがらせといった、過酷な現実の反映でもあるということ」

「おなじく批判家のマーク・フィッシャーはこのレイノルズの整理を踏まえつつ、ひとつめの『妥協しない』というリアルが、ふたつめのリアルたる資本主義経済にいともたやすく回収されてしまうことを喝破している。〝曲げない〝というオーセンティシティそれ自体が市場価値を持つからだ。ゆえにギャングスタ・ラップのリアルとは、ラッパーの生い立ちやメッセージがどうこうよりも、彼/彼女以外の圧倒的大多数が負け組になる事実、その『万人の万人に対する戦い』の状態を見つめることにある、と」

ー Ele-King 27号、106頁 

これは非常に示唆に富んでいる。まず“万人の万人に対する戦い“とは民主主義の祖のひとり、ホッブスが看破した事であって、それはかつて拙記事『リヴァイアサン』に書きました。
次いでリアルについては、昨日『リスペクト』の映画レビューに。

さらに重要なのは、「資本主義に外部はない」といふ事。同YouTuberの別動画に先日、篠原先生だか他の先生だか、コラボものでこれは指摘されていて、つまり我々はそれと意識せずとも資本主義体制の中で暮らしておる。「数の子クソ高っけー!」とか。

いかな共産主義者と言えども、資本主義を否定はできない。なぜというに、マルクス/エンゲルスの共産主義理論は資本主義の分析から始まるから。
これはあたかもニーチェがキリスト教の否定から入り、いわゆる超人思想を説いたのと同断。つまり、共産主義であろうと超人思想であろうと、いずれも前提たるは資本主義やキリストの神。
否定を試みつつも、前提とする時点で否定できないというね。

端的にいえば、ヒップホップ雑誌のEle-Kingも哲学系YouTuberも、そんなことを言ってます。

資本主義に外部はない。自分は共産主義者ではなく一介の貧乏人。つーかクリスチャン。
貧乏人はふつう共産主義に奔るのがアッタリマエ。漫画家のつげ義春氏が、こう言ってます。

「自分は貧乏人ですから、日本共産党に投票します」

宜なるかな。

それでも我々は、否が応でも資本主義体制の中で生きておる。システム的に。

そもそも“資本主義“って、「主義」じゃないよね。単なる体制であるから、共産主義みたいな「思想」ではない。たまたまの事である。
篠原先生以前に、柄谷行人だか誰かは忘れたが、それは先人の指摘するところ。

自分は必ずしも反資本家・反経営者ではない。基本、労使協調路線である。
なぜか。職場とは仕事をするところであり、政治活動する場ではないからだ。
ただし、自衛隊よろしく専守防衛ではある。彼らが抑圧するならば、倍返しでやっちまう。たまさか上に恵まれて、やった事はないけれど。
※全ての経営者が寅さんに出てくるタコ社長みたいな人だったら、俺は労働組合なんか要らないと思う。

労働とは本来、人様に貢献し己を磨く事であります。それは喜び。
ところがあいつらが搾取したり抑圧するから、本来喜びたる労働が、よりキッツいものになる。これを以てマルクスは「疎外」と言いました。
いや資本家だけじゃないですよ抑圧するのは。自分を含め人間は、常に勝手なことを言うし。

ただ、社会経済構造としてはそんなことですわ。

労働組合の意義とは、そんな社会経済構造にあってこそ。今や連合とかいういかがわしい組合が跋扈しておるが、そもそも労働者の味方だったのは総評。社会党系の総評と、旧民社党系の同盟が合併して「連合」になったのですね。
つまり右旋回したのであります。それを画策したのが、例えば〝鉄は国家なり〝時代に、某鉄鋼メーカーの労働部に勤めていた我が親父。
企業ぐるみ選挙を含め、彼の思想的には真逆のことをさせられたわけ。家族を食わせにゃならんかったけん。それで私どもは大きくなりました。さんきゅ親父♪

で、何だっけ。

自分は不肖クリスチャン。共産主義とは「神あり/神なし」で水と油ではあるが、実は共産主義の理想と原始キリスト教会とは酷似している。
共産主義の目標は「能力に応じて働き、必要に応じて享受する」。そこにもはや国家権力など存在しない。
「能力に応じて」とは、神の賜物たるタレント(才能)を活かせといふこと。「必要に応じて」とは、いかな障害者・働けない人や、なんなら働きたくない人でも、労働の対価を等しく享受できるといふこと。
そこに至る過程が、マルクスレーニン主義でいうところの「社会主義」であります。
※ところが人は必ず嫉妬する。「俺はこんなに頑張っているのに、あいつは働きもせんで!」とか言うて。だから君たちダメなんだよ。だって人それぞれでしょう。比較するのがそもそも誤り。
※そんな人心につけ込むのが維新ネオリベだったりします。結局心の問題なのですねこれは。

社会主義とは何か。本来の意味では、資本主義諸国の妨害(というのも資本主義とは資本家経営者が支配しているので)や、新体制下の自国を、徹底的に足元固めましょという過程的段階。そこで革命のリーダーたる共産党が、前衛として指導するという。

しかしロシア革命のソヴィエト連邦も北朝鮮も中共も、カンボジアのポル・ポトも、全然社会主義じゃない。あれは単なる独裁でしょう。
だって全く共産主義社会を志向していないから。ただ単に、書記長だか何だか、我が権力の強化に奔り、人民を抑圧する。
あのな。共産主義ってそもそも、人民が基本やちゅーねん。

こげな認識というか基本を「知っている、分かる」のが重要なんです。俺がクリスチャンだろうと、あなたがクズウヨであろうと。

俺は所詮音楽の徒であり文学の徒。演劇や絵画も大好き[m:332]
今年はブログに320本くらい書きました。ほとんど毎日よね。

くだらないことばかり書き連ねたが、要は認識、聴く耳・見る目、リテラシーの問題。
例えば良か曲をアップしたのは、みなさまに少しでも、そういう事を分かっていただきたかったからです。だって文化芸術に全てが表れているから。
もちろん自己満足込みですよ。

では今年最後の音楽を。アップしたものの中で、良かち思うたものを再三。
◆サラ・バレリスwith Playing For Changeで

https://youtu.be/wrXC2AVN0Io

クリスマスには、この曲をお届けしました。
◆ルーサー・ヴァンドロス ー Every Year, Every Christmas 

https://youtu.be/iHzBZwaIF1A

ラストは何にしようかな。やっぱドゥワップですかね。
◆オリオールズで、What are You Doing New Years Eve

https://youtu.be/gJt1xSRmgfQ

みなさん、今年もお世話になりました。
どうぞ良い年をお迎えください。

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