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寛容さが試される場所【本:パリの国連で夢を食う】

スリランカの建築家のジェフリー・バワ氏は、38歳のときに法律家から建築家へ。そして、この『パリの国連で夢を食う』という本の著者、川内有緒さんは38歳のときに国連やコンサルの仕事から作家へ。こういう、破天荒というか、異色の人生キャリアの持ち主の話が好き。とはいえ、きっと当の本人からしてみれば、自分の直感に従ったとか、それが点と点が繋がった結果なのだったとも思う。周りにも、政府関連の仕事をしながらも、シェフを目指すフィリピンの友人や、ダイエットのためにズンバを躍る大学教授のスリランカの友人、博士号を取得したあと起業したモルディブの友人、エジプトに戻るよりも日本で生活したいというエジプト人家族もいて、とても面白い。

さて、私は。目指せ、建築家兼作家兼農家。自らの「聖地」を建てるのだ。都市と田舎を繋げ、そしてメコン川を下るのだ。

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「比較的出会ったものに流されて生きている」
「出会ったのだから挑戦してみるか、みたいな」

この方の生き様は面白い。なぜ面白いかって、きっと本人が一番面白がっていると思うから。異国の地の拠り所が、漫画喫茶や日本にいたら読まない、というか出会っていなかったであろう昔の小説という点も、妙に納得した。

フランス、パリの街角
銀行の開設や部屋探し、事務手続きから始まる生活
国連のベースになる給料は決まっているが、そこに各国の物価指数や為替の変動などが加味され、毎月のように調整される。同じ職員でも勤務地が例えばフランスのパリとベトナムのハノイではまったく変わってくる。

コンサルタント(教育関連)としての仕事
アメリカのビジネススクールの実態研究
パナマの学術都市のためのマーケティング調査
インドネシアの職業訓練学校へのインタビュー調査
タイの小学校の先生たちへのインタビュー調査

現場調査もあれば、統計データや既存文書を利用したり、その問題に詳しい学者に話を聞いたりして調査や研究はおしまいということもあったりした

アガサ・クリスティーの小説

国連組織の2年間の活動計画:
戦争は人間の心から生まれます。だから人間の心の中に平和を築きましょう。異なる文化同士でも、お互いを理解し、差別のない社会を実現しましょう。「言論の自由」が保証される世の中を作りましょう。

パリは空き物件が極端に少ない。
そしてフランスは、かなりの文書至上主義。
パリの建築は、大まかには旧建築と新建築という2種類に分かれる。
新建築は数が少ないうえ、部屋の中はひどく殺風景である。

「家探しは、不動産屋と提携するなどして、職員には本来の仕事を早く覚えさせたほうがよくないだろうか。しかし、そういう柔軟性を持ちえないのもまた、巨大な行政機構のなせる業なのかもしれない。」

究極の個人主義の職場。ランチタイムも、何時にどこで何を食べ、何をしようと自由。イスラム教徒はまた別のサイクルで動いていて、1年に1度やってくるラマダンの期間中、彼らはランチを食べない。だから、ランチタイムを仕事をしていると見なされ、一時間早く帰宅することが許されている。

戦後のヨーロッパで最悪の紛争といわれるユーゴ紛争を生き抜いてきた男で、度胸もあり、社内の調整もうまい人。かつてはアメリカのピースコープに所属してアフリカ、ニジェールの内戦地帯におり、何にも動じない芯の強さを感じさせる人。でも愛妻家。クールでエリート、インテリに見えて、なかなかの親バカな愉快な人々。

最初は、近所のアジア食品店で見つけたレトルトの焼きそば。それを、床に敷いたバスタオルの上に座り、スーツケースをテーブル代わりにして食べる。心の拠り所は、近所の漫画喫茶。

渡辺淳一さんの熟年ロマンス小説
宮本輝さんのなつかしい小説

「この組織の予算単位は1年ではなく2年。つまり、年度末は2年ごとにやってくる。年度末というのはほとんどのプロジェクトも終わりかけていて、予算もなくなる。そして今がその年度末だ。」

最初は世界の植民地政策が国連の政治力学にも影響を与えているのかと思いきや、ただの彼とプロフェッサーの関係力学のようだった。

国連職員のカースト制度:正規職員のブルーバッジと短期雇用のオレンジバッジ。中には、年単位で契約していて、正規職員並みの給料があり、休暇などが保証されている人もいる。しかし、その下に非常に安い給料で、休みや職務内容なども曖昧な契約で働いている人もかなりいる。彼らは短い場合は、三ヶ月ごとに契約を更新する。更新できるかどうかは死活問題だ。全く別のサバイバル術もあって、今いる部署で契約が危なそうな場合は、すかさず他の部署に営業をかけ、別の短期契約を結ぶ。ある短期契約の社員の1か月の給料は700ユーロ。これは、フランスが定める最低賃金の半分。

「やれ人権だ、やれ平等だと大騒ぎしている国連の中に、最低賃金も保障されていない人々がいるなんて。」

アメリカの留学時代。大学卒業から半年後にはアメリカに出発。なんでこんな大変なことを始めちゃったんだろう、と毎日泣きそうだったが、完全に後の祭り。高い学費も払ったことだし、こうなったら絶対に卒業してやる、と気合を入れ直し、来る日も来る日も図書館で勉強し続けた。論文を書くのもアメリカ人の学生の十倍くらいの時間がかかるので、とにかく無我夢中。やっとまともに授業についていけるようになったのは、1年くらい経った時のこと。その頃には、私は見事に中南米の世界にはまっていた。先住民の歴史、左翼やゲリラ運動、アメリカの外交政策、そのすべてがつながり始めると、もっと知りたいという気持ちが強くなる。休みになるとメキシコやグアテマラに旅に出掛けた。他の学生より1学期多い2年半をかけ、学問的にも経済的にもギリギリで大学を卒業した。卒業があまりに危ぶまれたため、卒業試験の終了時間を学校側が特別に延長してくれたほどだった。

20代終りの無尽蔵の体力をフル活用し、終電で帰宅が当たり前。深夜3時に送った報告書のコメントがアメリカから1時間後に届いて、そのまま朝までに修正することもあった。南米やアジア、アメリカへの出張はさらに増え、1年のうち7カ月はホテルに泊まっている状態だった。プロジュエクトは、教育の他にも、農村開発や道路や電力といった様々なエリアにまたがっていて、いつも未知の世界に連れていってくれた。トレーニングを受けて色々なインタビュー手法を学び、知識も経験も増え、「専門家」に近づいていった。

不法居住区:59リヴォリ、スクワット
国連の「移動祭日」
15区の「ブシコー」

「フランスでは、ルールっていうのは守るべきものではなくて、努力目標なのさ」

大規模な調査プロジェクト:世界七か国からのデータを収集する必要性
個人主義の職場で、データベースも過去の記録もなく、自分のコネと能力で探してこないといけない、それに加えて国連の財政難。交渉はハードになると予想された。各国にあるフィールドオフィスへの協力要請やスケジュール調整等。

「ビザ」:上司の承認や決裁
業務連絡にさえ2週間も3週間も要する
私の仕事における座右の銘は、日本時代の「一心不乱」から「心頭滅却すれば火もまた涼し」へと変化を遂げた。

国連が開催している週2回のフランス語講座
国連公用語の6ヵ国語(英語、フランス語、スペイン語、中国語、アラビア語、ロシア語)すべてを習うことができる

「職員の日」は、有志の職員による劇、ゲーム大会、映画鑑賞会などが開かれる。急ぎの仕事をしていると「だめだめ、今日は遊ばないといけないんだよ」と誘われる。

オズの魔法使いのドロシー
組織対抗の国連オリンピック
ランチタイムにジャージとスニーカー姿に着替え、昼休みに走る同僚
国連パスポート

「政府は身を守ってくれない。自分の身を守れるのは自分だけ」

私は、この街が好きになってきていた。それはただ美しいからではなかった。パリは、とても人間的な街だった。多くの場所に歩いていけて、人々は路上で議論をしたり、けんかしたり、歌ったりしている。いつも何かが路上で起こっている、そんな街に見えた。とにかく人生を謳歌している人々。

人生には仕事よりも大切なものがあるんだよと教えてくれた上司。その事実と記憶が、時間が経てば経つほど、大きな救いになっていた。

哲学者の国フランスとディベートの国アメリカ

この組織に何年もいる間に全世界が満場一致の議決にこぎ着けるのは大変な偉業なのだと理解し、素直にパーティに参加するようになっていった。

彼女が見ているこの世界は、私が見ている世界とはだいぶ違うのだと気づいたのは、もうちょっと後のことだ。フランスは移民への差別が激しい国で、黒人がアパートを借りるのは至難の業なのだと説明してくれた。

バンリュー:アフリカや中東からの移民が多く住む貧しい地域を指す言葉

そこに流れる空気のような何かが、とても好きだった。

私の「作品」はいったいなんだろう。
私は事後評価という仕事にはやりがいを感じていた。評価がなければ国連は今のままだ。ただ、あれらの報告書は「わかりにくい」「サンプル数が少ない」「結論と提案に納得できない」などと批判されることは多々あっても、「ありがとう」と言われることはまずなかった。無味乾燥な報告書が、自分の「作品」だなんて。

スクワットと国連、アーティストと公務員。一見すると対照的な場所に属していたが、実は深い部分でどこかが似ている気がしていた。

好きな人の話を聞くのは、好きな音楽を聴く感じに似ている。リズムが自分の奥底に響いてくる感じ。話はつきなかった。気づけば、すごく感動していた。彼女は自分の人生を、生きていた。

誰もがきちんと「今」を生きている。

パリ症候群:パリに住む日本人がかかるという謎の心の病で、パリという街が持つ華やかなイメージと現実のギャップに狭まれて鬱になる現象

孤独感もすでに霧散していた。この先どこに住もうとも、私はこの空をもってパリをなつかしむようになるのかもしれないと思った。

私には、長い時間をかけてじっくり楽しめる「マイプロジェクト」が必要だった。今となっては、既存のデータや第三者が書いた報告書を使いまわして新たな報告書を書くことが仕事になりつつあった。国連では、誰もが多かれ少なかれ不満を持っていた。25年間勤めないと、満額の年金ももらえない。だから、誰しもが大小の不満を抱えつつも、バイオリンを習ったり、長い旅行に行ったりすることで折り合いをつけていた。それが私の場合は、「書く」というマイプロジェクトだった。

フランス人は結婚という制度にはまったくこだわりが無く、何歳になっても「恋人」を求めていること。離婚率が非常に高く、パリでは実に50%を超えているのだそうだ。

猪突猛進

国連事務総長のコフィ・アナン「国連はなぜワールドカップに嫉妬するのか」当時のFIFAの加盟国は、実は国連加盟国より多い。サッカーは世界中の人々がその動向に注目し、あらゆるカフェや街角で、議論が交わされている。サッカーは、国境を超え、年代を超え、すべてを超え、みんなの思考を支配していた。

ヘミングウェイ:もし、きみが、幸運にも、青春時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ。

大きな決断というのは、人から見ると時に突然で、大胆なように見える。しかし、本人の中では、一滴ずつ水かしみ出すように始まっている。その水は、いつか流れになり、小石を動かす。小石とは自分の奥深くに堆積した魂。ふだんはじっと動かないので、気にもとめない。しかしたぶん、私が国連に勤め始めたその時に、すでに小さな魂はそこにあった。そして、ゆっくりと水かしみ出して、流れになって、小石はころんと転がり始めた。

目標の本質を理解しないと、間違った指標で間違った努力をしてしまう。

私は、昇給云々よりも、面白いことをやり遂げたい、エキサイティングな現場に関わりたい、誰かの役に立ちたいという気持ちが強かった。まだ務めて2年ちょっとで、ぼんやりと自分の人生が見えた気がした。それは、パリが舞台だということを除けば、静かな人生だった。ずっと途上国の現場に行きたかったのに、いつ私は道を間違えてしまったのだろう。あの時、勤務地が未定というルーレットに賭けたら、玉が入ったのがパリだったんだ。

会議でも政策レベルの対話とか言いながら、雲をつかむような議論ばかりしている。政策対話というのは、私達が働く国連組織のミッションのひとつ。国際会議や条約の策定、調査研究などを通じて、各国政府の政策に影響力を与え、よりよい政策立案を働きかけるというもの。ただ、一国の政策に「対話」で影響を与えるのは簡単ではない。世界銀行のように目の前にちらつかせるお金でもあれば話は別だが、貧乏な国連組織には、そういった飛び道具もないのだ。

もともと数人しか配置されていないスタッフが辞めてしまったりすると、業務がすぐにパンクした。

何かが、微妙にずれ続けている。

海外暮らしは出会いと別れの連続だ。一人に出会うと、一人が去っていく。誰かと出会い、ゆるやかに友人になり、気兼ねなく電話し合えるようになるまでにはすごく時間がかかるのに、去っていく時はあっと言う間だ。

国際協力の世界でもっとプロジュエクトに関わり、途上国の教育問題に貢献するのがドリームだったはず。だから、そういった意味では、私は今ドリームジョブに就いているはずだった。ただし、あくまでもパソコンや会議の中でだけだ。扱っているのも、知らない誰かが集計し、処理したデータ。今や「マイプロジュエクト」のほうがよっぽどリアリティがある。そこには生身の人間がいて、現実に起こっている手触りのあるストーリー。お金にならなくても、誰にも読まれなくても、自分のやりたいという気持ちひとつが自分を動かしていた。

私が国際協力の世界に入ったのは、世界を変えたいからではなく、大学生の時に、コスタリカで出会った女性に恩返しをしたかったからなのだ。私はただ、目の前の小さな目標に一生懸命だった。いつも自分を変えたかったのだ。

好きなことをとことん追い求める人々との出会いこそが、パリに住む醍醐味だった。卓越したものを生み出すことに飽くなき情熱をぶつけていた。彼らが生み出す作品は、リアルな世界そののもだ。人が感動し、生きる活力を得る。そういう種類の作品だ。そういうものに触れると、心が震えた。

教科書上の理論を打ち消すような、圧倒的な存在の親子

このままここにいたら、なりたかった自分からはますます遠ざかっていく。自分の足で歩くことを忘れて、あのケチな自分に戻ってしまう。

国連は「寛容さが試される場所」

夢を叶えられる人というのは、結局ノリが良い人なのだろう
深刻に考え、重い決断を下して・・・といちいちエネルギーを使い果たしていたら、夢が叶う前にエネルギー切れで燃え尽きてしまう

山小屋に訪れたくなった。

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いわき回廊美術館(福島県)の館長もしているのだとか。

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https://nemotomiki.jp/travel/20190808/3025/


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