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本当の美は内面にある。人格や高い理想や人生の目的に。【本︰インテグラル・ヨーガ】

心と身体と魂を、結ぶ。ヨーガの語源はユジュ(結ぶ)。何よりも寛容で、「あなたの身体は、誰よりもあなたのことを知っている」と、ヨガのポーズも物事の捉え方も、全てはあなたが心地よいと感じることを。と、常日頃から教えられる。そんな、ヨーガをするすべての人々へ向けた、聖書とも言われる聖者パタンジャリのヨーガ・スートラをまとめた本。

パタンジャリのヨーガ・スートラ

「ヨーガ・スートラ」は、事情に凝縮度が高く簡潔である。これは、一般の小説のように、一度目を通しただけで投げ捨ててしまうような本ではない。また、大量の議論や哲学によって心を満たす学術書でもない。これは実用的なハンドブックなのだ。

ヨーガにおいては、実践は必須の要素である。日々、進歩を点検しよう。常に怠りなく。

サマーディ:完全な解説の境地
ヨーガの本当の意味は、心の科学である。

心とは何か?自分自身の内に向かい、探ることで、われわれはそれを理解し、制御することができるのだろうか?何千年にもわたる先輩の探究と成果を系統づけたパタンジャリの「ヨガ・スートラ」を現代に生かす、サッチダーナンダによる変貌への手引き。

・われわれは、日ごとに自らを高め、態度を広げ、利己性を減じて、自らの身体と心とに対するすぐれた支配者となるべきである

・意識の拡大や心の科学全般への関心が急激に高まりつつある現在、われわれの期待がこの古代の科学ラージャ・ヨーガ(原典はパタンジャリのヨーガ・スートラ)へと向かうのも、自然なことである

ヨーガ・スートラ(四つの部門)
全部で200近くあり、伝統的に4つの部門に分けられる

第一部:サマーディ・パダ(三昧部門)
ヨーガの理論と、実修の最高段階のサマーディという内的観照についての記述

第二部:サーダナ・パダ(実修部門)
より実際的な性格を帯び、ラージャ・ヨーガの伝統的な八支分のうちの基礎段階であるはじめの五支が説明され、その効験、遂行にあたっての障害、そしてそれらを克服する方法が述べられている

第三部:ヴィブーティ・パダ(成就部門)
ラージャ・ヨーガの最終的な三つの内的段階の論述に加え、誠実な修習者に現れる力と成就のすべてについて述べている。

第四部:カイヴァリャ・パダ(絶対部門)
より宇宙哲学的な視点からヨーガを論じている

第一部:サマーディ・パダ (三昧部門)

・自分の心が変わることによって、自分が何もかも変化させているのだヨーガは、自己改革、自己制御、自己調整に基礎を置く。

・ヨーガ・スートラは、現代に百花斉放しているさまざまなタイプの瞑想とヨーガすべての土台となっているのである

・シュリー・スワミ・サッチダーナンダのヨーガに向けての全アプローチは、個々の人間の、身体的、情緒的、精神的、知的そして社会的側面のすべてを考慮したものであるがゆえに、彼はそれをインテグラル・ヨーガ(統合のヨーガ)とよんでいる。

・彼は、1946年、リシケシのシュリー・スワミ・シヴァーナンダのアシュラムを訪ね、そこに自らのグル、すなわち霊的指導者を見出した。


・パタンジャリは「寛容の縮図」

ただ選択した対象が来たらしめる可能性を示すのみにとどまる。普遍的かつ全宗教的で、すべてを包含するもの。今、その人の持つ哲学や宗教の経験、そして日々の生活の経験を広げるところの、理解する技術を説く。

・サマーディ・パダ

Atha Yoganusasanam.これよりヨーガを明細に説く

アヌシャーサナム=詳らかに説くこと

単なる哲学は我々を満足させない。実行を伴わなければ何事も成し遂げられない。

Yogas Chitta Vritti Nirodhah
心の作用を止滅することが、ヨーガである

チッタ(Chitta)=心の総体
アハンカーラ=我慢
ブッティ=覚
マナス=意

Mana eva manushyanamkaranam bhandha mokshayoho. 
人は心なり。束縛あるいは解脱は汝自身の心中にあり。

・心をコントロールせよ。この世の何ものも、あなたを縛ることがない。

Tada Drashtuh Svarupe Vasthanam
そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態にとどまる

・自己改革、自己制御、自己調整に基礎を置く

VRITTAYAH PANCHATAYYAH KLISHTA AKLISHTAH心の作用には5種類あり、それらは、苦痛に満ちたもの、あるいは苦痛なきものである。

精神分析家になるのだ。その作業そのものがヨーガの実修なのである。

・誰かを愛することは、楽しいことだが、その愛が、いかに大きな不幸や苦悩、嫉妬や憎悪を運んできたか、とくと経験ずみのはずである。なぜなら、その愛が純粋でなく、何らかの見返りへの期待に基づいたものだったから。

PRAMANA VIPARYAYA VIKALPA NIDRA SMRITAYAH
それらは、正知、誤解、ことばによる錯覚、睡眠、そして記憶である

パタンジャリの言う根拠の確かな知識の一つの例は、自分自身の眼で実際に何かを見ることによって理解するもの、つまり直接的知覚である。もう一つは推理によるもの。

われわれは、根本の真理とその提示との違いを見極めなければならない。<自己>なる真理は同じだが、ことばや形そして様式を介して表されるとき、それは個人や時代の要請に応じてさまざまな現われ方をするということ、忘れてはならない。東洋、西洋、南方、北方、どこに発祥したものであろうと、それらの根本的な真理は、一致して当然なのだ。

「どこかおかしい」と思ったら、どんな聖典でもいい、それで調べてみる。「はたして聖典はそれを立証しているか?」と。確実な知識を得る方法。

VIPARYAYO MITHYAJNANAM ATADRUPA PRATISHTHAM
誤解は、あるものに対する知識が、その実態に基づいていないとき、起こる
SABDAJNANANUPATI VASTU SUNYO VIKALPAH
(基盤となる)実体がなく、単にことばだけを聞いて生ずる心象は、ことばによる錯覚である
ANUBHUTA VISHAYASAMPRAMOSHAH SMRITIH
過去に経験し今も忘れられていないものを対象とする作用が意識に戻って来るとき、それが記憶である

5種類のヴリッティ、すなわち想念の形態である

SA TU DIRGHA KALA NAIRANTARYA SATKARASEVITO DRIDHABHUMIH 
修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる

・根本の真理とその提示との違いを見極めなければならない。自己なる真理は同じだが、ことばや形そして様式を介して表されるとき、それは個人や時代の要請に応じてさまざまな現れ方をするということを、いつも忘れてはならない。

・ところが残念ながら、われわれはすぐに結果が見たい。修習は、持続的でなければならない。

・修習(アビイアーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)が大事。気をそらす欲望から心を離す。欲望に満ちた人間の識別力は、完全に萎えている。

・欲望が無くなるというのは無い。私的なあるいは利己的な動機のない欲望はどんな欲望でもあなたを縛らない。なぜなら、純粋で無私な欲望には、期待というものがまったくない。

Mokshabhekshobandhaha
解脱に対してさえ、執着するなかれ

・何も持たないからこそ〈自己〉を持つ。世俗的な事柄を捨てることによって、あなたは最も貴重で聖なる富、〈自らの平安〉を持つ。

・ヨーガの名のもとに何かを話したり、ただ集まる、離欲の生活。私達のお金やエネルギーやアイデアをプールする。それ以外に私たちのこの人生に何が必要だろうか?それがヨーガなのだ。

奉仕すればするほど、あなたはより大きな幸せを味わう。そういう人が人生の秘密を知っているのだ。物を持っていても、永久に幸せであることはできない。持てば持つほど不幸になる。聖者や世捨人だけがいつも幸せなのだ、失うものが何もないから。何も持たないからこそ<自己>を持つ。それが秘訣なのだ。ヴァイラーギャを持て、平静を持て、無執着を持て。世俗的な事柄を捨てることによって、あなたは最も貴重で聖なる富、自らの平安を持つ。

「他者に奉仕するための自分自身の備えとして」衣食住を得る。私は、他者に奉仕するために自分自身を整えているのだ。

Tat Param Purusha Khyater Gunavaitrishnyam
プルシャ(真の自己)の悟得によってグナ(自然(プラグリティ)の構成要素)に対してさえ渇望のなくなったとき、それが至上の離欲である

忍耐、熱意、すぐれた内実

離欲:私的な欲望がないという意味であり、他人に奉仕することには貪欲であれ。欲望に満ちた人間の識別力は、完全に萎えている。

Man me Ram, hath me kam (Hindi)
心にラーマ(神)、手に仕事
心を神にとどめ、頭脳を世界にとどめよ
手にて事を為し、心はラーマ(神)に置く

世界に遊ぶこともできる。が、プレイの仕方を知らないと、痛い目に会うこともある。

ヨーガ・スートラは、その背景にサーンキャ哲学を持っている。
プラーナ:グナと呼ばれる3つの性質から成っているサットヴァ、ラジャス、タマス(静澄、活動、惰性)これらの三性が均衡を保っているときには、事は生じない。

まず、自然(プラクリティ)を完全に理解し、それを自らの制御下に導き、その後でそれを捨てて解き放たれるのである。人はよく、そうしないと捕縛されてしまうと考えて、森や洞窟に隠遁することでこの世を捨てようとする。だが、そのようにしたところで、けっして自然から自由になることはできない。われわれはどこへも逃げ隠れすることはできない。

グル(師):自分自身の知を知らしめてくれる”誰か”

ヨーガはすべての宗教の基礎である「自然とのヨーガ(結合・合体)」

思慮深い登山家

・生きながらにして解き放たれている状態。まず、自然(プラクリティ)を完全に理解し、それを、自らの制御下に導き、その後でそれを捨てて解き放たれるのである。人はよく、そうしないと捕縛されてしまうと考えて、森や洞窟に隠れることでこの世を捨てようとする。だがそのようにしたところで、決して自然から自由になることはできない。われわれはどこへも逃げ隠れすることはできない。どこまで行こうと自然はついて来るのだから。それを理解し、それを正しく操作して、乗り越える以外に道はない。

・最終的には悟り、つまり実在〈自己〉と非実在〈プラクリティ〉についての識別がなければならない

・心の静けさを保つ

ウパニッシャド「真理は一つだが、見る者はそれをさまざまに語る」
(Ekam sat, vipraha bahudha vadanti)

・マントラの力:われわれは、同じ音の力によって、作ることも壊すことも、祝福することも呪咀することもできる。実際のところ、この二十世紀ほど幅広くことばの力が開陳された時代は他にない。たとえ価値のない物でも、巧妙なことばによってすばらしい物であるかのように見せることができる。つまりことばの力というものは、誤った使い方をされることも可能なのだ。それが、こうしたことばを扱う前に心が純粋でなければならない理由である。

・ヨーガ哲学には誰にでも適合する何かがあるので、誰もこれを否定し去ることはできない。

・パタンジャリはすべての個人の在り方を、幸福、不幸、有徳、不徳の四つのグループに分けた。四つの心構えとは、友愛(慈)、同情(悲)、欣喜(きんき)(喜)、無関心(捨)。そして、いつもあなたのポケットにこれらを入れておき、相応の鍵を相応の人に用いれば、あなたはあなたの平安を保持することができる。われわれの目標は、静かな心を保つこと。

MAITRI KARUNA NUDITOPEKSHANAM SUKHA DUHKHA PUNYAPUNYA VISHAYANAM PHAVANATAS CHITTA PRASADANAM
他の幸福を喜び(慈)不幸を憐れみ(悲)、他の有徳をよろこび(喜)不徳を捨てる(捨)態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。

友愛(慈)、同情(悲)、欣喜(喜)、無関心(捨)を備えていよう。 幸福な人に出会ったら、”友愛”の鍵を使え。相応の鍵を相応の人に用いれば、あなたはあなたの平安を保持することができる。われわれの目標は静かな心を保つこと。

・ハタヨーガ(ハは太陽、タは月を意味するが、この二つの対極が、ゆるやかな仕方で融合されねばならない)

・上向きに動く力がプラーナ、下向きに動く力がアパーナ

南インドの偉大な聖者チルムーラー
「心の行くところへ、息は従う」

・息の自動的な停止:ケーヴァラ・クンバカ
心の動揺を感じたときは、いつでも呼吸を整えるとよい

VISHAYAVATI VA PRAVRITTIR UTPANNA MANASAH STHITI NIBANDHANI
あるいは、微妙な感覚的知覚に対する集中が、心の不動をもたらす

・叙事詩『ラーマーヤナ』

・あなた自身の体験によって理解する。その時が来るまでは、あなたが聞いたり読んだり思い描いたりしていることはすべて、あなた自身の心によってなされている。西洋の心理学は心について語るばかりで、「心で理解しなかったら何かを理解することはできない」と言いながら、同時に、「しかし心によってすべてを知ることはできない」と言う

・心を超えたとき、それははじめて理解される
・瞑想の中にいったん深く自己を確立し、心を修得・支配してしまえば、瞑想するのに難しいものは何もない

第二部:サーダナ・パダ (実修部門)

・『ヴェーダ』と『ウパニシャッド』

Maunavaakyam Prakathiata Parabrahmatattvam
非顕現の至高の原理は、無言によってのみ説かれ得、ことばによってではない

・まず心が純化されねばならない。そうすれば感覚の統御もたやすくなされる。

Satyam bruyat priyam bruyat
真実を語れ、快きことを語れ

・あなたが私を完全に理解したかったら、あなたは私にならねばならない。でなければあなたは、あなた自身の能力に応じた私を理解するにすぎない。

・タミールの諺
聖者のみが聖者を知る、蛇のみが他の蛇の足を知る(われわれは、聞いて、学んで、自分なりの意見を形づくって、想像力を働かせる。しかし、体験に等しいものはない。)

・身体の苦行とは、礼拝・清潔・素直・独身生活・不殺生である。まず、心が純化されねばならない。

・研究するのも結構だが、単なる理論や引用や論争のためにではない。本当は、ことばが重みを持つのは、自分自身の体験から「引用」するときだけなのだ。学問は、何をどれだけ学ぶべきかを知らないと邪魔になることがある。だから、読むことを制限し、読んだことを実行に移そう。本は一冊か二冊にしよう、あなたの目標を思い出させてくれるのなら、何でもいいから。

・何でも自分が所有しようとするな。一時それを預かってはいるが、自分はただの受託者で、所有者ではないと思え。

AVIDYASMITA RAGA DVESHABHINIVESAH KLESAH
無知、我想、執着、憎悪、生命欲が、5つの障害(煩悩)である

・ヨーガは、光を得た人のためにあるものでもなければ、何も知ろうとしない完全な無知の人のためにあるものでもない。それは、その境目にいる人のためのものだ。

・西洋人の多くは、輪廻転生を信じない

・サンスクリット語のカルマ(業)には二通りの使い方があり、「行為」と「結果」を指す場合と、そのどちらかを単独に指す場合とである。

・3種類のカルマ
プラーラブダ・カルマ︰現世に発現して使いつくされつつある
アーガミー・カルマ︰現世で新たに作り出さつつある
サンジタ・カルマ︰未来の生で遂行されるべく、カルマ・アーシャヤの中で待っている

・スートラは「寿命(アーユ)と苦楽の体験(ボーガ)はカルマによって決定されるが、そのカルマというのは前途の諸障害の結実だ」ということも教えている

TE HLADA PARITAPA PHALAH PUNYAPUNYA HETUTVAT
カルマは、善業に起因するものは楽、悪業に起因するものは苦として結実(業報)する

自分の人生が幸福であろうと不幸であろうと、それは自分自身の創作なのだ。あなた自身があなたの最大の敵である、と同時に最良の友でもある

・自分のよく知っている家族に対してさえ自分自身をうまく適合させられないときに、どうして知らない人々の集団への適合が期待できるだろう?「未知の困難より既知の困難」

・家庭生活は社会生活のためのトレーニングの場である。

・苦と楽は、他ならぬあなた自身のアプローチの結果である。同じ世界が天国にもなるし、地獄にもなるのだ。

HEYAM DUHKHAM ANAGATAM 
未来の苦は、回避することができる

自然は元祖と器官の組み合わせである。器官には、知性、心、感覚、身体も含まれる。普通われわれは、自然とはわれわれの身体以外のあるもののことだと考えているが、われわれ自身を真の〈自己〉だと感じるときには、その身体さえもが自然の一部である

・ヴィヴェーカ(識別)とヴァイラーギャ(無頓着・離欲)

・ブッダの四つの高貴なる真理(四聖諦(ししょうたい))︰この世の悲惨(苦)、その原因(集)、その除去(滅)、そのために用いられる方法(道)。パタンジャリの場合は、「苦は避けることができる」と言う。次に、「その苦の原因は無知である」という。

MANA EVA MANUSHYANAM
(束縛も解放も)人はその心次第である。
TASHYA SAPTADHA PRANTABHUMIH PRAJNA
最終段階の智は、七重である。人は1.もっと知りたいという願望、2.何かを遠ざけておきたいという願望、3.何かを得たいという願望、4.何かをしたいという願望、5.悲しみ、6.恐れ、7.惑わし、の7つが終熄するのを体験する。

・外界に求めようとしても求める知は得られないという結論に達する段階。知とは、内を向くことによって、内側から得られるものだ。

・汝自身を知れ
・われわれは、自分が外界を見るのにどういう色眼鏡で見ているかということを知らなければならない。快楽と苦悩の体験はすべて、外界から来るのではなく、われわれ自身の心の「翻訳」なのだ

学ぶことによらない理解→自然とその働きを理解したときに来る。そこでわれわれは、「為されるべきことはもう何もない」と感じる。われわれはとくに、「義務」はないのだ。

「バガヴァッド・ギーター」
Atmana Atmanam Pasyann Atmani tusyati
「自己によって自己を見、人は自己に安息する」

・態度は常に一貫させるべきだ。責任はすべて自分にあるのか、それとも神にあるのか。

・本を読むとか、聖典を全部読むとか、すべての寺院を巡礼して回るとか、世界中のアシュラムや教会を訪ねて回るとか、それらはみな、バーヒャ、つまり外的な修行である。それらを堂々とやり続けることに、何千年もを費やす人々。内さえ見さえすれば〈光〉は見えるのに、あたかも鏡の中に自分自身の姿を見るがごとく。

八支分のヨーガ:アシュターンガ・ヨーガ
1.ヤマ
2.ニヤマ
3.アーサナ
4.プラーナーヤーナ
5.プラティアーハーラ
6.ダーラナー
7.ディアーナ
8.サマーディ

・一番簡単なのは環境を変えること

・真実に従え、そうすれば真実があなたに従う
・他人の考えや時間を盗んではいないか?

・最も富める者というのは、冷静沈着で、緊張や不安から自由な心を持つ人である

TADARTHA EVA DRISYASYATMA
見られるものは、見る者のためにのみ存在する

・われわれは、未来を思い煩う必要はない。そしてまた、過去を気に病む必要もない。今この瞬間に幸福であることが、われわれの手中にある。世界を変えようとしているのではなく、自分自身を変え、鳥のように自由だと感じることができる。

・教師は、生命力を他者に注ぎ与える

Mana eva manushyanam
人はその心次第である

・ヒンドゥーの考え方では、人生には4つの時期がある
ブラフマチャーリャ、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サンニャーサである。

・本当の美は内面にある。人格や高い理想や人生の目的に。

・人格全体を調整し、神経を鍛え、頭脳の力を増して、心を穏やかにする。オージャス(保存された性エネルギー)は太陽が昇ってしまうと効力を失うので、午前4時から6時までがブラフマムフールタ、ブラフマン性の時間帯、神聖な時間帯と呼ばれ、瞑想するべき非常に神聖な時間だと言われる

われわれがしなければならないのは自分自身を調整することだけだ

Samtoshad Anuttamah Sukha Labhah
知足によって、無上の喜びが得られる

・苦痛を避けようとするのではなく、それは後に来る大きな喜びの代価なのだと知って、それを迎え入れる。

Tyagat shantir anantaram
あらゆるものを献げることによってのみ、汝には終わりなき平安がある

・ヒンドゥー教の思想体系の中では、感覚は霊的探究という仕事に従事させられる。寺院の内部はどこも色とりどりのもので飾られている。インドで無料ですばらしい音楽が聞きたかったら、宗教的な祭礼に行けばよい。彼らは、神に向かって演奏するのであり、人間に向かってするのではない。そして、食べ物も、まず神のために用意され、その後なら誰が食べてもよいことになっている。

・われわれに必要なのは鋼鉄の強さと、その柔軟さ。まずは自分自身の日常的な小さな力のコントロールを。

第三部:ヴィブーティ・パダ(成就部門)

・ラージャ・ヨーガの最後の三支、ダーラナー(集中)、ディアーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)を修めることにより現れ始める。

・われわれの心は、あちこちさまよっている。

・トラータカ:実際にある物を見つめること
対象を、できるだけ長く、ただ見つめる。そのとき、その対象の背後のものに心を置くと、より長く見つめることができる。しばらく凝視して、静かに目を閉じて、集中対象を心の中に描き出してみる。まずそれは外にある。次にそれを心の中に持ち込む努力をする。

・瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。

・ちっぽけなもので満足するな。われわれのゴールは非常に高い何かなのだ。それは、永遠の安らぎ、永遠の喜びだ。
・もしおまえが静穏であり幸福であることを欲するならば、他者のために行為せよ

第四部:カイヴァリヤ・パダ(絶対部門)

DRASHTRI DRISYOPARAKTAM CHITTAM SARVARTHAM
心は、見る者と見られるものの両方から染められることによって、あらゆるものを理解する。

悪い欲望を追い出すためには良い欲望を持たなければならない。

・想像不可能な神を想像し、その想像が一人一人全部違う。だからわれわれは争うのである。

・聖者のみが聖者を知る

茂木健一郎氏の言葉

笑うことを忘れなければ、人生は回っていく。
とにかく、生き続けること。つないでいくこと。つらいことや苦しいことがあっても、笑うことを忘れなければ、人生は回っていく。それは結果ではなく、一つの決意である。

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