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『文学界』5月号・幻想の短歌 フラッシュメモリー20220420 

正直なところすっと身体に入ってこないものの方が多い。短歌、小説、俳句…。音はかなり駄目…音痴だし…。少しましなのはダンスと美術…。演劇もだいぶかかわったけれど、そんなに得意じゃない。にも係わらずちょっと幻想がかった雑誌を出していただいぶ長いこと。よくやってきたものだ…とつくづく呆れる。その最後の号になると思っていた『山尾悠子』特集。10ヶ月ほど前、よたよたと、たくさんの人に助けられてできあがった。素晴らしい特集になって——で、躓いた。世界は言葉でできている。つまり幻想も言葉でできている。そして言葉は先人の言葉から生まれてくる。とすると自分のやってきた雑誌はなんだったのだろうと…正確に言うと係わってきた[自分]の部分だ。雑誌は素晴らしい書き手とアートディレクションによって光を放っていた…(闇の中の光だけれど…)足を引っ張っていただけの自分?…。かなり落ち込んで、今までの10ヶ月間ずっとずっと本を読んでいた。小説の近代を遡っていた。フローベールから…そしてこの辺りを探れば、言葉をふっとばすような幻想、幻視があるのではないかと、金井美恵子が例外と言っていたネルヴァルの辺りに差し掛かって、絶望はさらに激しくなった。ネルヴァルも先人の言葉を使う。ホフマンも…。
自分が触っていた、そして幻想と確信していたものは、現実の…目の前で…見せてくれた/体験させてくれたことだった。寺山修司、土方巽、ヨーゼフ・ボイス、笠井叡、勅使川原三郎…まだまだたくさん。それを何とか伝えたくて雑誌をやっていたのだが…あ、紙の上に成立させる幻想は、自分のやってきた方法ではできないのだと実感した。またまた衝撃を受け、無力感に嘖まれた。文字を扱えない自分だけども…それでももしかしたら別の方法はなかったのかと…それを確かめようと読書していた。
で、そろそろ諦めかけている。80年代から幻想文学を支えてきたのは雑誌『幻想文学』の東雅夫と国書刊行会の礒崎純一だったと。そして今もだろう…二人がこれまでに出版に係わってきたことの総体、そして現在活動している文豪ストレイドッグスを含む、ホラー、怪談、ファンタジーを含んでいる大きな双曲線の二つの極が東と礒崎なのだ。双極の中心から放たれた弧に囲まれたところが、現在の幻想文学あるいは幻想というものの[域](もちろんそこには泉鏡花も澁澤龍彦も山尾悠子も含まれているが、自分自身はその三者を含まずに幻想というものを想定していた。)であると思われる。その広い[域]の中に自分の雑誌はいない。もちろん自分もいない。

『文学界』が「幻想の短歌」を特集した。[幻想の]——は好奇心をそそられるのと同時に、何かの潮時が来たんだなとも思った。昔の意気がっていた自分のやる特集だったろうに…『葛原妙子』『寺山修司』そして読み手編集者としての中井英夫…でも自分の作る幻想の特集を描き出す言葉を自分は出すことができない。ああ、リスペクトして読むだけの人間になったのか…。と。
すこし話がずれてしまうが、本を読み続けているなかで…かつて山科の古民家でオルタナティブの展示をしたいたこともあって…山科を起点に書かれている小説を何度も読み返していた。一部、書き写したりして手を和ませていた。そのときに気がついたのだが…和歌も超素人なのであっているかどうか分からない…違っていてもどうか御勘弁。小説の一部を書き写しながら、山荘にいる自分の姿を想像した。頭の位置を整えて…雨戸を半開きにして月をまつ…あ、山荘の庭は竹やぶで月が見えないか…じゃぁ竹やぶが少し光を透かすほどの茂りっぷりということにして…で、夜を徹して月の移動を愛でる…山荘のすぐ側には安祥寺川が流れていて、せせらぎが聞こえる。以前、庭で山海塾の岩下徹が、谷川俊太郎の「みみをすます」を踊ってくれて…全身を耳のように…五感をすべて聴音にして耳をすますと…踊りの振りによってせせらぎの音がしたり(聞こえたり)竹のさやさやいう音がしたり、風が小さな旋毛をまいたり、そう松明の音もした。それぞれが聞こえてくる。そんな体験をした。音や景色は平均して存在しているわけではない。人が感覚でフォーカスをあてて初めて感じられるものだ。山荘の水音が月を誘導する…その時の月は、たとえば浜辺に登る月ではないのだ…小説のその部分を写しながら、その姿を真似てやってみたら…和歌が一首浮かんだ。

「庭のうへの水をとちかきうたたねに枕すずしき月をみるかな」藤原信実

下敷きにしたわけでも本歌とって文字にしたわけでもないだろう。おそらく。そんなことはどうでも良くて、この和歌のもつ定番の解釈と(解釈!歌は解されるものではないのかも…知れない)は別に、歌を家に置き、夜に置き、ともに添い寝してみると、景色の向こうに見えるものはいろいろだ。それは一つの幻想でもあるかも…こういう言葉からの発生もあるかもしれないと思った。思ったが、自分にはそこで終わり。先行きどうしようもない。
さて百人一首
「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関は許さじ」清少納言
この和歌も文章になっている。(と、勝手に思っていて)相乗して和歌と小説は自分に夢を見させてくれる。書かれている場所は、自分も行ったところで、お茶に関することをしてきたが…それでも和歌は自在の幻想を呼び起こす。こんなに読みが定着している万葉集でも、言葉は別のものに宿ったりもするし、場所に宿って別の風景を見せてくれたりもする。清少納言が「書く」定番の解釈の向こうにあるものは…まだまだあるのかも…などど妄想していときに[幻想の短歌]の告知を見つけた。山尾悠子が歌を選び、川野芽生が歌を語っている。妄想の遊びを中断して『文学界』5月号を読む。

おそらく書き手も歌人も「短歌の幻想性」ということについて論じられるように考えてはこなかっただろう。それぞれがそう言いながら話したり書いたりしている。そこがとてもしなやかで…分かったと本人が思っていることを論じ諭す…(自分もやってたかも…)のではなくて、自在にそこで今を思考している。
『文学界』と編集長の設定が素晴らしくそして若手の歌人を自由にしている。編集ってこうあるべきなのかも…読み尽くして吸収しつくそうと思ったが、歌をよみつけていないので、全体も…切り込みの鋭さも、読み切れなかった。残念…。ほんとに残念。大森静佳、川野芽生、平岡直子の鼎談がただただ面白く、今、和歌と文字とを…考えている自分にさくさくと刺さってきた。決まった自分の考えを述べあうのではなく、話しながら見方読み方感じ方…そして組立、ロジックを相互に出し入れして、話を幻想ということに向かわせている。話すことによって生まれてくるものがある。こういう三人のような感性と考えの方に、動いていくのだなぁとつくづく思う。大森静佳が「結果として、自分の身体から逃げ出すというか、現実の身体との距離感が遠いほど幻想と私は認識しているのかな、という傾向は見えてきました。」平岡直子が「幻想的な短歌っていうのはなんらかの意味で『身体的じゃない』『身体ぽくない』ことだと思う。短歌がつねに身体に囚われているから。と語っている。川野芽生は、ここでは身体についてあまり言及していないが、どこかで、肉体はないと言っていたような…記憶もある。(まちがっていたらごめんなさい)身体が幻想との対局にあるという感覚は…まさに現代の小説がそうであると感じる。身体の対局としての幻想、時代を層にした言語を連ねての…
川野芽生はこの鼎談で、「アンドロイドが書いている短歌」という概念をだしていて、とても深く興味深い。アンドロイドは人間であって人造物…あ、今の感覚だと人造物に近いのか?な…。でも身体はある。特殊な。これは幻想を生み出したり考えたりする重要なキーかもしれない。そして「私は幻想というのは両目をカッと開いて対象を観察していく中でむしろ見えてくるものだと思うんですよね。」とも言っていて、視覚の見開いた写実の中から幻想はうまれるとも。これは絵画の幻想の感覚に近い。幻絵画で一斉風靡をしてた『青木画廊』(今でも自分の絵画の精神的基盤になっている。自分の雑誌の名前は、展覧会のカタログに書かれた滝口修造の詩のタイトルをいただいた)では、[幻想レアリスム]と幻想絵画の総体を表して、雑誌『みずゑ』の表4広告を毎号飾っていた。川野芽生のどちらかに、何かに決め込まない…軋むような鋭い作歌の手が感じられ…才能ってこういうものなのだな…と。そして時代はこうした人たちの手によって転換していくのだな(今までもしてきたのだから…)とつくづくと思った。

ゆっくりと読み解きながら、[今]が少しでもとらえられたらと思う。それにしても『文学界』すごいな。歌人たちはもっと凄いのかも…ちょっとまだ自分は爪の先もとどいていない。そこだけがいやんなっちゃうな。

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