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咄嗟の判断は人を痛い目にあわせる。

うちのボス曰く、「〇〇力」といわれるものは、鍛えれば向上するものなのだそうだ。
体力や筋力に始まり、表現力や洞察力、文章力に瞬発力……
数え上げたらきりがないけれど、人間が後天的に身につけるものが「力」なのだとすれば、程度にこそ差はあれど向上させることはできる、と。

年を重ねれば重ねるほどつく力もあれば、年のせいにはしたくはないが、徐々に衰えていく力もあるというもの。
その辺をうまくコントロールしていくことこそが、生き抜いていく知恵だったりするのかなぁ、とも考える。

で、今日は「咄嗟の判断力」について。

今回のワールドカップ、特に侍ブルーたちの活躍には、同じ日本人として胸躍り心打たれ、励まされるものがあったけれど、「にわか」の自分でも、おい!判断遅すぎだよ!とか、自分にはできもしないくせに随分勝手なことを言いながら観戦し応援していた。

判断遅すぎ!

とか生意気なことを言ってみたものの、判断力って、どうやったら鍛えられるのだろう?
しかも、咄嗟の判断力、である。

例えば、先のサッカーだったら。

今ボール持ってるアイツのところに何人いて、あそこから蹴ったら、こう軌道を描きながらあの辺りに落ちるけど、俺がこっちに走ったら相手もこう走るから、ここはこっちに蹴ると匂わせて敢えてドリブルで……

とかなんとか?

文字にしたら100文字程度の動きを瞬間で計算してやってのけているであろう彼ら(違ってたら、ごめんなさい)。

いや、プロなんだからさ。当たり前でしょ? それが才能ってもんよ?
そう思われる人もいるかもしれないが、日頃シミュレーションし、訓練しているからこそできること、なのは確かだ。


ちなみに、自分には「咄嗟に判断する力」は多少なりともある、と思う。
最初はグー! と言われれば、じゃんけんして勝ったり負けたり引き分けたりできる(それだけ?!)。

でも、果たしてそこで下した判断が正しいか、正しくないか?
グーをだしたら相手がチョキをだすのか?

判断の結果、選択したものが最適だったか、最悪だったのか?
勝ったから得られたものは何なのか?
勝てさえすればよかったというのか?

そんな所まで考えてしまうと、瞬時の判断力を磨き、自分にとってより良い決断をするためにできることは何なのだろうか?と考えずにはいられないのだ(大げさ)。


ここまでひとしきり色々考えて、やはり判断力というのは、失敗と成功の積み重ねから磨かれる力なのだろうな、とは思うのだけど。

ん?
あれれ?
ちょっと待って。

じゃんけんって、やればやるほど上達するんだろうか?
もしかしてこの例を咄嗟に選んだ自分の判断ミスか?


えーと。
じゃんけんの話はさておき、なぜ今日、咄嗟の判断力について考えたのかの種明かしをしようと思う。
ガッカリしないでほしい。

実はついさきほどのキッチンでのこと。
カウンターにあったガラスのコップに荷物がぶつかり、倒れて転がり落ちた。両手がふさがっていたため、なぜか咄嗟に足が出た(足グセ!)。

お察しの通り、足の上に重たいガラスのコップが降ってきて、キャッチ!
できるわけもなく、鈍い音と共に転がっていくコップ……
その、あまりの痛さに悶絶したのだ。

コップが割れなくてよかったけれど、骨折もしなくてよかったけれど。
咄嗟の判断で足を出した自分に心から怒りを感じた。なんてアホなんだ、自分?! サッカー選手のようにリフティングしようったって、そうはうまくいかないのは明白だというのに。

というわけで、こうして咄嗟の判断って人を痛い目に合わせるんだよね、とひとりでつぶやいた。
そして、もうちょっといい判断が出来なかったのか?!と足の痛みに耐えながら、自分を呪ったのだった。




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