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チビるほど怖かった国語教師の話
あなたには、印象に残った先生は居ますか?
生徒の面倒見が良い慕われるタイプの先生も居れば、所謂人間性がクソすぎる、悪い意味で印象に残ってしまった先生も居たのではないでしょうか。
大人になった今思うのは、先生も人間だったんだな、ということ。
今回は私が中学の頃、最も印象に残っている先生の話──厳密には、中1の頃の国語教師の話をしようと思います。
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その先生は当時40代くらいの女性であった。
イニシャルで呼ぶのもしっくりこないので、ここでは「ミツ子」と呼ぶことにする。
※当たり前だが、本人の前ではただの一度もそんな風に呼んだことがない。
もし呼んでしまっていたとしたら、今ここで五体満足でぬくぬくと記事を書けていないだろう。
ミツ子は、一言で言えば「とんでもないレベルの鬼教師」だった。
公立の治安の悪い学校には怖い先生っていうのは必ず1人は居るものだ。
だがこれまでの人生で、「怖い先生」というカテゴリでは、彼女を超える教師に出会したことは無かった。
鬼教師と言っても色々あるが、とにかくすげぇ怖いのだ。(顔も)
ミツ子は当時中3のクラスを受け持っていた。
初めて見たのは、全校集会の時。
受け持っていた3年生が私語をしていたが何かで、とんでもない剣幕でキレていたのだ。
どう形容すれば良いか分からないが、とにかくヤクザ映画にも引けを取らないレベルの凄みであり、その怒声は体育館どころではなくて学校中、いや学校周辺一帯に響き渡っていたに違いない。
緊迫感やドスのきいた声って女性でも出せるんだな、と思ったのを覚えている。
普段は逆らえない絶対的存在である3年生が、ミツ子の前ではまるで小さな子羊のように即座に静まり返り、お通夜のような雰囲気になっていたのを、よぉく覚えている。
そんな様子を見ていたこともあり、私たち中1のクラスを受け持った時も、他の先生方とは比べものにならないくらい緊迫感が漂っていた。
彼女が教室に入る、いや廊下を歩いて向かってくる足音が聞こえた瞬間、それまでふざけ合っていたクラスメートが一瞬にして静まり返り、まるで強い磁石に吸い付けられたように着席するのだ。
どんなにヤンチャな同級生でも、他の授業では私語に興じるのに、ミツ子の授業ではふざけることはなかった。
そうしてミツ子の授業が始まる。
え?忘れ物をした?
もちろん、その場で吊し上げられます。
私は一度ミツ子の授業の日に国語の教科書を忘れてしまったことがあり、頭を下げて隣のクラスの人に借りに行った。
たまたま隣のクラスも国語の授業があったから教科書を借りれたものの、もし借りることができなかったらどうなっていたかと思うと今も恐ろしい。
授業中も、ずっと緊迫感が漂っていた。
まず、当てられたら一字一句間違えてはいけない。
答えの正誤、声の大きさ、タイミングにわたる全てが、彼女にとって合格ラインかどうかをジャッジされることになる。
答えが分からず吃ってしまったら「お前勉強してねぇだろ!」と怒られる。
ちなみに私自身は「ぴろろ、お前解答は合っているんだが、早口すぎるからもう少し落ち着いて発声するように」と怒られた。
しかし今考えても、ミツ子の前で落ち着いて何かをするというのは無理ゲーすぎた。
プリントも、先生から渡されたら「ありがとうございます」とお礼の言葉を発しなければならない。
勿論、礼儀としてお礼を述べるのは大切なことではある。
だが、ミツ子のそれは完全なる恐怖感から従っていたと思う。
お礼の言葉を言っても「声が小さい!」と怒られる生徒もいた。
そのような、まるで北朝鮮の軍事訓練のような空気を週に3、4回経験しないといけないのは、中学生という多感な時期には色々と辛いものがあった。
また、授業そのものではなかったが、思わぬことで怒られた生徒もいた。
隣のクラスに入ってはしゃいでいた女子生徒が、ミツ子が教室に入ってほんの1、2分遅れて着席したのだ。
するとミツ子は彼女の席まで無言ですたすたと向かい、胸ぐらをグッと掴んで顔面まで1cmあるかないかくらいまで睨みつけ、怒鳴りつけたのだ。
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私は彼女の席から離れていたが、半径2、3mくらいの生徒は漏れなくちびったに違いない。
しかしこの時だけは内心「ミツ子、ありがとう!」と思っていた。
というのも、その女子生徒は所謂1軍に属して我々陰キャをこき下ろしていたこともあり、普段虐げられていた側としてはスカッとしたものだ。
私は自分が嫌いな人間が怒られているのを見るのは好きなので、絶対に笑ってはいけない空間ではあったが、くちびるを噛み締めて終始笑いを堪えていた。
(後に彼女の取り巻きから「テメェ笑ってただろ」と詰められたが、シラを切った。)
ミツ子の授業の中でも特に大変だったことはもう1つある。
それは、毎学期終わりにやる「学習記録」の作成だ。
この学習記録というのは、簡単に言えば、学習した証(漢字練習、音読記録、プリント類など)を自分で製本して提出をするものだった。
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学習記録の内容はともかくとして、当時中1、素人にとっては製本作業は至難の業だった。
母が手伝って、というか製本に関しては全て母に任せていたし、夜中まで手を痛めて作業をさせてしまっていた。
母は凧糸を通す作業が慣れない作業でとにかく苦痛だったと言っていた。
そんな母の尽力もあり、私が作った学習記録は最高評価を頂くことができた。
このように、ミツ子の厳しすぎるご指導により国語の勉強は可能な限り真面目に頑張っていた。
だが、実は国語はお世辞にもすごく得意という訳ではなかった。
初めての定期テストは国語だけ81点だった。全教科90点以上を目指していたのに。
そのことがあまりにも悔しくて悔しくて、家に帰って泣いた。
テストが終わってしばらく経った頃の授業参観の日、ミツ子は私の母に出会ってこう伝えたそうだ。
「お母さん。ぴろろさんは、よく頑張っていますよ」と。
その瞬間、彼女は厳しいが生徒想いの先生なのだと思った。
確かにミツ子は怖くてたまらない先生ではあったし、国語の時間が来る度に憂鬱ではあった。
でも普段の様子を彼女なりに見てくれているんだなと思ったし、少し嬉しかった。
できることならその言葉を直接言って頂きたかったな。
そして更に彼女の意外な一面は、思わぬところで気付かされることになる。
夏休みになると、学校の付近で夏祭りがあった。
夏祭りは中学校の先生方も巡回するのだが、何人かの先生方にぞろぞろ混ざって、ミツ子の姿もあった。
しかしミツ子は、他の先生とは少し距離をとって後ろから歩いていた。
普段のように怒声を響かせるわけでもなく、とても大人しかった。
この先はあくまで私の想像であるし、もしそうではないなら大変失礼な話であるが、彼女は恐らく先生方の間でも馴染めなかったのかなと思った。
仲間はずれにされるっていうのは学生間でも起こりうることだ。でも大人だって、浮いている人は距離を取られやすい。
そんなミツ子のことが、中1というマセガキの年齢ながら少し可哀想に感じてしまった。
冬になり、学校教育の一環で百人一首も覚えることになった。
ミツ子の授業でも「冬休みの間に20首覚える」という課題が出された。
勿論20首覚えてなかったら、殺される。
私は記憶力に自信がなかったので、ミツ子に怒られることが怖く、死に物狂いで暗記した。
後にも先にもあそこまで寝る間を惜しんで勉強した経験はない。
当時祖父が胃癌で入院中だったが、夜まで病室で看病で付き添いながらぶつぶつと呟きながら必死になって覚えたのだった。
(後に祖父は無事回復しました)
そうして私は20首どころか100首全て覚えた。
休み明けの、ミツ子が抜き打ちで出題する百人一首テストにも難なく合格。
「お前本当によく頑張ったな!」と笑顔で言われて、この人も笑うことってあるんだなと妙に驚いた記憶。
動機としては「怒られたくないから」という決して褒められた理由ではなかったが、このことがきっかけとなり古典文学に興味を持つようになった。
結果的に大学で古典文学含む文学作品を専攻することになったので、そちらに興味を持てたのはほぼミツ子のおかげと言ってもいい。
そしてなんと、中1が終わる頃には、なんとも不思議な感情であるのだが、「来年も再来年もミツ子が国語担当だといいかもしれない」と密かに思うようになった。
しかしその願いは叶うことはなかった。
2年生に上がると、ミツ子は私たちの学年の国語担当からは外れることになった。
そして3年生になると他の学校に着任することになり、私たちの中学を去った。
不思議なことに、あんなに怖い先生だったのに担当から外れた瞬間、少し寂しく感じたものだ。
多分、ミツ子には贔屓という言葉は似合わないが、少なくとも他の生徒と比べれば、私は彼女に気に入られていたんじゃないかなと思う。
というか私自身が変な人間なので、癖のある先生に好かれやすいのだ。
やはりミツ子に気に入られているということは変な行動もできないわけだから、終始心臓がバクバクしていた。
あれから15年以上経つが、当時40代半ば〜後半くらいに見えたので、今はもう定年退職をされて先生をやっていらっしゃらないかもしれない。
もしかしたら歳を重ねて、当時の威圧感とか無くなっているかも。
この先、きっとミツ子に会うことはないと思うが、私の人生に大きく影響した先生の1人として、一生忘れられない存在であるということをここに記しておきたい。
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