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タニンゴトからジブンゴトへ(後編)

さてさて、だいぶ長くなっておりますが、私のこれまでについてのお話の続きです。前編はこんな感じでした。


前回のお話は、学生時代からかなーりフラフラしてきて、27歳で突然ボーカルスクールに行き、その後高校時代の友人の立ち上げた会社に転職したところまででした。
前回書いていた内容とちょっと変わりましたが、激動の後編もぜひお楽しみください。笑

5、デザインなんてしたことなかった自分が、商品開発をすることに


二つ返事で入社することになったボーダレス・ジャパン。
私が入社した7年前は、まだまだとても小さな会社で、東京と福岡の2拠点がありました。
そして、福岡に住んでいた私は福岡オフィスで働くことになりました。
その当時は東京のシェアハウスと福岡のハーブティー事業のみだったので、必然的にハーブティー事業で働くことに。
私の入社と同じタイミングで、ボーダレスが大々的にソーシャルビジネスを打ち出してから初の新卒が入ってきたんですが、彼らは大学時代から社会貢献に関わる団体などで活動をしているような人たちで、私なんかと全く熱量が違いました。

「彼らと熱量違い過ぎて、俺って場違いなのだろうか。。。」

とちょっぴり物怖じしたのを覚えています。

最初の担当は、カスタマーサービスメンバーのマネジメント、そこからハーブティーの原材料の在庫管理、受発注、ECの中の商品プロモーションをやることに。
全くそんなことしたことがなかったので、とにかく毎日てんやわんや。朝早くから夜遅くまで働いていました。
それでも、なんだか人と人との距離も近く、大学の部活のノリのような感じも好きでなんとか頑張っていました。

でも、なかなか結果が出ず、なんとしたものかと苦しんでいたところ、ちょうど立ち上げをしていたビジネスレザーファクトリーというバングラデシュの雇用創出を目的とする事業でやってみないかという話が田口からあったのです。

「人当たりいいし店舗開発とかする営業か、もしくは革製品好きそうだから商品開発してみる?」

と田口に聞かれ、

「じゃあ、商品開発で!」

と軽い感じでビジネスレザーファクトリーで商品開発をすることに決めました。
まあ、元々自分にやれることを探しに入社していたので、与えられたものはなんでもやってみようという気持ちだったんですね。

ビジネスレザーファクトリーに移ってからの初日
「じゃ、早速バッグのデザインやってみて。」
と言われました。

普通なら、今までデザインなんてやったことないわけですし、
「は?」
となるところですが、ボーダレスはそういうノリの会社なので
「了解!」
と素人が突然デザインとやらをやり始めたのです。

新規事業だったので、その当時は、デザイナー兼カスタマー対応兼モデル兼出荷兼。。。。いろいろやってました。写真はモデル写真です。笑

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6、英語なんて使ってなかった自分がバングラデシュへ


最初はまあ、ほぼパクリに近いものをデザイン(と言えないような事をして)していきながら過ごしていました。ボーダレスの中には商品開発やってた先輩なんていなかったので、本当に暗中模索という感じでした。笑
そして、あるタイミングでバングラデシュ にいくことになったのです。

多少の勉強はしていたものの、しっかり使ったことなんてなかった英語。
それなのに、初海外で突然バングラデシュへ。
なかなかヘビーで濃い初海外でした。

最初にバングラの空港に降り立った感想は、
・埃っぽい
・怖い
・不安

でした。

こちらは当時のバングラデシュの写真↓

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ただでさえ初海外だったからというのもありますが、空港についてみると機関銃を持った軍人が立っていて、相当ビビってしまいました。
ドキドキしながらホテルについて、翌日バングラ事業の工場へ。
私が初めて行った時の工場はマンションの一室みたいな狭い空間で、30人程度の人が働いていました。

工場につくと、みんな生き生きと働いていて、
「やあ!」
と元気に挨拶してきてくれていたのがとても印象的でした。
直接会ってみると、みんなとても素敵な人たちで、空港に着いた時に自分が抱えていた恐怖や不安ってなんだったんだろうと思いました。
何よりも、彼らが自分たちの仕事に喜び・誇りを感じているのを知って、とても感動したのを覚えています。

イスラム教って、テロ組織とかの情報だけしか知らなかったから、

「自分で勝手に恐怖を作っていた」

ということをそこで知りました。

無知が差別を生むんだなと、その時強く感じました。

ハーブティー事業から移って5年、私はビジネスレザーファクトリーで100個近くの商品開発をし、靴のデザインなんかもしてきました。
その中で、何度もバングラに渡航をし、時にはバングラの仲間たちと一緒に寝泊りをして、食事もしながら働いてきました。

バングラのみんなや日本の仲間たちと深く関わる中で、みんなそれぞれが悩んでいることや感じていること、夢なんかを聞くことが増えていきました。
そういった中で、

「もっと彼らや関わる人たちの力になっていけないのか」

と考えるようになっていきました。

こちらの写真は、靴生産を泊まり込みで検品していたときのゲストハウスでの仲間たちとの一枚↓

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7、結婚〜思い立って東京へ


特にバングラに渡航が増えた時期の直前に、私は運よく同じ職場の店舗販売スタッフの女性と結婚することになりました。
結婚することを朝会で伝えた時、事業部の仲間たちに、祝福されるのではなく、なぜか叫び声と共に、驚きのあまりキレられていたことを今でも覚えています。笑

結婚したあたりから、

「もっと自分が周りに貢献できることがあるんじゃないか」

と、バングラや日本の仲間たちと関わっていくうちに、なんとなくモヤモヤしていた私は、商品開発以外で直接

「人の成長を促していく仕事」

ができないものかと思い始めていました。

よし!思い切って環境を変えよう!と思った私は、社外への転職も含めて検討することにしました。
そして、巡り巡って障害者雇用を変えることを目的とした事業を展開していた同じボーダレスグループのジョッゴという事業に移ることにしたのです。
(ちなみに、ジョッゴの主たる事業は、バングラの雇用創出です。)

決め手はシンプルに

「人の成長に関わる仕事」

だったから。

発達障害がなんなのか詳しく知らなかったですし、もしかしたら事前に詳しく知っていたら行ってなかったかもしれません。その時も、信頼していた人から声をかけられたので、極端な不安はなく東京に行くことを決めました。
ただ、結婚して間もない奥さんからすると、あまりに大きな変化だったので、かなり不安もあっただろうと思います。それでも、ついてきてくれて本当に感謝しかありませんでした。

こちらは福岡から東京にいく際に乗ったフェリーの写真↓

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8、タニンゴトからジブンゴトに変わる瞬間


そんなこんなで、バングラに行ったり、結婚したり、東京に引っ越してきたり、なんだか激動の数年を過ごしてきた私。
東京に来てからもそれは変わりませんでした。

実際に移った事業で働くことになったのは、革製品の製造をする工場。精神・発達障害のある方といわゆる定形発達の方(発達障害がない方)が一緒に働いている環境でした。
バングラデシュの事業を経験してきたおかげもあり、国籍・性別・障害の有無などに特に抵抗のなかった私。
それでも、工場の中のそれぞれの人同士の個性や表現は大きく違っていて、それをまとめていくことはとても大変でした。

それは例えるなら、人それぞれ「言語」が違う状態です。

Aさんの「普通」とBさんの「普通」は全く違うのです。

仕事も生活も、環境の大きな変化に奥さんもかなりまいってしまって、一時期はこの決断は間違いだったのかとも思ったこともありました。

その後、当時ジョッゴの中の一事業だったこの工場が、独立して別会社になるという話があり、そこからさらに状況が変わっていきました。
独立当時は二人の事業代表がいて、私は工場長として役割分担をしながら事業を進めようとしていました。

新規事業を進めて行かなきゃいけないという状況と、現場のメンバーのことも見て行かないといけないという状況、様々な状況が絡んで最高にカオスな状態だったなと今でも思います。て、そんなに前のことじゃないけど。
正直やることあり過ぎて、今何やってんのかわからん!という感じでした。笑
それでも、シンプルに

「目の前の仲間たちをなんとか笑顔にしたい。」

という気持ちで、なんとか乗り切ってこれました。


ボーダレスに入るまで、なんとなく仕事をしていた私。
でも、ボーダレスに入ってから、その意識は徐々に変わっていきました。

「やらされてる」から「やりたい」

にだんだんと変わっていったのです。

大きなきっかけになったのは、

ビジネスレザーファクトリーでのバングラのみんなとの出会い。

そして

今いるUNROOFという事業との出会い。

でした。


タニンゴトだった意識が、ジブンゴトに変わった瞬間は、

「この人のために何かできないだろうか」

という目の前の人を思う気持ちが芽生えた瞬間でした。

これまでも、目の前の人のために何かをしたいという気持ちはすごく強くあったように思います。でも、それを深く意識したことはありませんでした。

社会貢献というと、
「自己犠牲の精神で、お金ももらわず世のため人のために働くこと」
というイメージの方も多いのではないでしょうか。
でも、決して自分の全てを犠牲にする必要はないんだと感じながら、今私は働いています。むしろ、自分自身も幸せでないと人を幸せにすることなんてできないと思っています。

私のように特別大きな原体験がない人間でも、こうして目の前の人のためにという思いから、ジブンゴトの意識へと徐々に変わっていくことができたんです。

そして、ガムシャラに動いて、大きな仕事も取ってこれるようになり、自分にもできることがあるとようやく思えるようになっていきました。

「自分にしかできないことがある」と思えるようになっていったのです。

こちらはバングラの素敵な仲間たちです↓

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9、誰にでも価値がある


そんなこんなで、自分に価値を見出せずにいた頃から、様々な出会いを経てようやく自分にも価値があると思えるようになっていきました。

そして、いろんなことに対してタニンゴトだった自分が、少しずつジブンゴトへと変わっていくことができました。

これまでやってきて思うことは

「今、目の前のことに全力で向かっていくこと」

が大切だったんだなと思います。
過去や未来に思い悩んでるんじゃなく、与えられた環境に感謝をしながら、目の前にいる人たちとどれだけ向き合っていけるか、それが大切なんだと思います。

と偉そうなことを言っていますが、まだ何もうまくいっているわけではありません。

今年に入って事業責任者を務めることになり、自分ができること以上のことをする必要が出てきて、自分でいろんなことを抱え込んでしまい、結果体調を崩すに至りました。

ようやくジブンゴトの意識に変わって、自分の価値を感じられるようにはなったけど、まだまだリーダーとして仲間の価値を活かしていくことができなかったのです。

ただ、ある意味今回体調を崩したことは、自分にとって大きなチャンスなのかもしれないと感じています。ゆっくりとした時間を過ごすことで、落ち着いて自分を見つめ直し、自分には何ができるのか、何ができないのか、改めてどこへ向かっていきたいのかを考えることができています。
働いている中で、なかなかこんなに落ち着いた時間を過ごすことなんてできません。
何より、この経験もきっと誰かの力になるんじゃないかと思っています。

そして、自分を見つめ直していくうちに、やっぱり元の

「人の可能性を広げたい」

という気持ちに立ち返っています。

最終的にこれまで歩んできた道が正解だったかどうかは自分が決めるものだと思います。
障害があってもなくても、国籍がどこでも、性別がなんだとしても、

「どんな人にでも価値がある」

と私は信じています。


なかなか一筋縄では行かない環境もあると思いますが、そんな多くの人が抱える

「生きづらさ」

を少しでも変えていけるよう、私は私の力を尽くしていきたいと思います。

最後自分が死んだときに、

「岩城に出会えてよかった」

そう言ってもらえる自分になれたらと思います。

かなりの長編になりましたが、自己紹介も兼ねて、私のこれまでの半生を少しだけお話ししました。
さあ、まだまだ道半ば!
一人でも多くの人の可能性を広げられるよう、日々精進していきたいと思います。

最後の写真は、今いるUNROOFという事業の素晴らしい仲間たちが力を合わせて催事をやったときの写真です↓

よかったらのぞいてみてくださいね^^

UNROOFのリンクはこちら

催事2 (1 - 1)


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