推しに、推し活とはという話をされる(大切な人に、大切な人とはという話をされる)

先日、私がこよなく愛してやまないボーカリストのバンドのライブに行かせていただきました。
本当に素晴らしい歌声で、今でも余韻が頭の中に響いております。

そんなライブの中盤のMC。
「大切な人に愛を伝える」ことがテーマの曲の前での一幕です。
ボーカリストが「皆さんそれぞれ大切な人がいると思いますが〜、」(ニュアンス)というようなことを話し始めました。
その瞬間、「〇〇(ボーカリストの名前)ーーーーーーー!!!!」と叫んだファンがいました。
つまり、そのファンにとっての「大切な人」はそのボーカリスト、ということをそのファンは彼に伝えたかった訳です。(おそらく)
そのとき、「あ、私も!」と内心思いました。代わりに伝えてくれてそのファンの人ありがとう、とまで思いました。笑 

その叫び?コール?に対して、ボーカリストは、

「そういうね、『推し活』的なのもね、あると思うんですけど、」(ニュアンス)

とおっしゃったんです。
その瞬間、私は、

あ、線が引かれた。

と感じました。
私にとって彼を応援することは、「推し活」なんていう俗っぽい言葉に括られる行動ではなく、私にとって彼は、「推し」なんていう安っぽい言葉で括っていいような人ではない。
と思っていたし、今でも思っています。

けれども、彼にとっては、彼自身のことを応援されることは世間一般で言う「推し活」と同じなんだ、と私はその反応を見て解釈しました。(解釈違いだったらどうしよう)
その叫んだファンの人にとっては(私にとっても)、真剣に、大切な人は彼なのに、彼にとってはその感情は「推し活」の一環でしかないのです。


私の中での彼の姿は、生活の延長線上にあるものであり、もちろん、尊敬すべき人として、延長線上にはないものでもありました、でもどこかで私と彼の世界は繋がっているのではないかと期待?していました。
同じ時の中で過ごし同じ列島の上で暮らしている。
葛藤し悩みながら日々生きてる。

でも、その反応を見た瞬間、彼は延長線上にいない、手が届かない場所にいるんだ、と彼本人から思い知らされてしまったのです。

彼と私は同じような人間だ、だなんて厚かましいことは思っていません。
一方、人間臭くて泥臭いところが好きで、そんなところに親近感?愛着?のようなものを覚えていたのです。


この文章の落とし所が分からなくなってしまいました。笑
でも、今回の私と同じような経験をした、オタクや追っかけの皆さんは多かれ少なかれ存在するのではないのでしょうか。
大切で大切で仕方ないアイドル、歌手、俳優、タレントから一線を引かれてしまったような感覚。
それらの職業に就いてる方々からしてみればこの文章はとてつもなく鬱陶しくて面倒くさいものな可能性が高いです。
なので、せめて我々オタクや追っかけの間だけでもその寂しさを共有し合えればいいな、なんて思いながら書き終えます。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
あなたの「推し活」に幸あれ。

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