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レイチェル・ギーザ『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』について、兄との対話

はじめに

7月は、コロナに加えて、梅雨のせいでなかなか外出する気にもならず、あいかわらず部屋に引きこもってばかりいた。
とはいえ、友人たちと製作中の「ハロプロ楽曲と私たちの人生」をテーマにした同人誌は、編集作業が佳境にさしかかっており、毎日それなりに忙しい。

現在、BOOTHで予約注文を受付中なので、興味のある方はぜひ。

P……私(pirarucu)。最近、在宅時間が長くなって兄との通話時間が増えた。
兄……pirarucuの実兄。藤浪晋太郎の復活を切望している。

boys書影

P:さて、今回は、レイチェル・ギーザ『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(DU BOOKS, 2019)を取り上げたいと思います。

前回の最後に、次は意見が分かれそうなテーマを取りあげたいと言っていたので、今回は、「男らしさ」について書かれた本を選んでみました。これだと兄妹間で違いが出るかなと。

兄:この本は、北米在住のレズビアンである著者が、パートナーと養子の男の子を育てることをきっかけに、いかに社会の中で「男らしさ」が形成されているのかについて考えてみた、という本だよね。

P:そうね。ジャーナリストの著者らしく、とにかく事例がいっぱい出てくるよね。

「男らしさ」がいかに社会から影響を受けているのか、裏を返せば、後天的に変わっていくことの可能性を信じているという意味で、とてもポジティブな本という印象を受けたかな。

私は、既存の「男らしさ」を是とする社会への違和感みたいなものは持ってるけど、直接「男らしく」あれ、と抑圧されたことはない。逆に、兄は「男らしさ」を引き受けてきた側の人間として、その特権性と有害性について当時者として思うところはないの?そういう話をこの機会に聞いてみたい。

兄:そうね......。「特権とは、そのことを考えるか、考えないかの選択肢を持っていること」(ヴィルジニー・デパント)みたいな言い回しってあるけど、まさにその通りで、一般論としてはともかく、当事者としてはこれまであんまり深く考えずに過ごしてきた部分ではあるかな。

P:これを機にガンガン自覚していくべきやね。覚醒してくれ。

マン・ボックス

P:さて、この本では「マン・ボックス」という概念が出てくるよね。これは文字通り「男らしさの檻」という意味で、7つの「マスキュリニティの柱」によって構成されている。

1.自己充足的である
2.タフにふるまっている
3.身体的魅力がある
4.伝統的で厳格なジェンダー役割に従っている
5.異性愛者である
6.性的能力が高い
7.攻撃によって争いを解決しようとする

これらの条件を著しく内面化していたり、強く共感している人ほど「マン・ボックス」内にいるとされる。

そうした男性は、健康や安全面でリスクを冒したり、暴力的になったり、ハラスメントしたりする傾向が強い。あと、親密な友人関係を保つことや、心理面・感情面で助けを求めることが苦手というレポートが紹介されてるよ。

兄:いわゆる「有害な男性性」(Toxic Masculinity)だよね。

最近、男性学の本を読むようになったけど、かつて伊藤公雄が、近代的な「男らしさ」へのこだわりを、優越志向・所有志向・権力志向という3つの志向性としてまとめていたのもこれに近い話かな。

そうした、伝統的な「男らしさ」への過度のこだわりが生む弊害は、日本でもかなり可視化されてきた感じはするけど、わたし自身も含めて、まだまだ「マン・ボックス」の内側にいる男性は多いんちゃう?

P:そもそも、兄は自分の「男らしさ」についてどう思ってるん。男らしさを証明しなくちゃ、みたいな不安があるわけ?

兄:わたし自身は、小さいころから背丈が高かったり、毛深かったり、異性愛的な規範をわりとすんなり受け入れてきたり、デフォルトの男性性が高めの設定な気がするので、「男らしくあれ」というプレッシャーに晒されてきたという実感はあんまりないかな。

むしろ、自分の男性性の発露を、いかに周囲と調和可能な範囲にコントロールするかということを課題と感じることの方が多いかなぁ。

P:自分の「男らしさ」を疑ってない人だ。

兄:最終的に「有害な男性性」から自由になっていきたい、という意味では同じかもしれないけど、社会から押し付けられる「男らしさ」に息苦しさを感じるというよりは、すでに引き受けてしまっている荒ぶる男性性をどう鎮めていくか......みたいな問題意識の方が強いかな。

P:なるほど。兄の立場は、よくいえば、「変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ」という感じやね。

でも、すでに獲得してしまっている「男らしさ」を「変えられないもの」と諦めてしまうことは、この本の言葉でいえば「神経学的セクシズム」に陥ってしまう危険はあると思う。つまり、男女の脳の差異を誇張して性差と結びつけるようなステレオタイプな言説のことね。

兄:まぁ、どちらかというとそっち寄りというだけで、前提そのものはさらに疑う余地があるという気はする。男性学的な文脈で、「男性はもっと感情を表出してもよいのでは」みたいな指摘をみると、素朴にハッとすることもあるし。

人間本性みたいなものはあるにせよ、それを認めることと、なにが社会的に構築されたものなのかを探求することは両立するしね。そういう自分の中でのバランスは、今後変わってゆくかもしれない......。

P:一方で、『ボーイズ』の基本的なメッセージは、「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ」ということで、われわれは幼少期から、社会に溢れる、ジェンダー規範に従わせようとするメッセージからいかに影響を受けているのかという話をたくさんしてる。

本物の男とは何かというメッセージは、「お医者さんが『男の子ですよ』と言った瞬間から始まるんです」(略)若い男性たちにとって、マスキュリニティのルールは、単に自分の意思だけ従おうとするものではないし、仲間うちだけで守るべき決まりごとでもない。

結局、はじまりは家庭からなんよね。私もかなりの「女らしさ」についての教育を家庭で受けたと思う。

兄妹との関係でいうと、女の子が男性的にふるまうことはステップアップとみなされるけど、男の子が女性向けの活動や衣服を好んでいると思われるとステータスや権力が失われることになるという非対称性がこの本では指摘されてた。

私も、小さなころは兄の影響で特撮を見てたし、兄と遊ぶとキャッチボールとかやらされるし、遊びの面ではそういう「越境」がちょいちょいあったかな。でも、兄はあまり女の子らしい遊びはしてなかったよね。

兄:してないね。これが姉弟だったらどうなってたかみたいな点は気になるかな。

P:「男らしく」あれ、というメッセージを具体的に受け取り始めた時期は覚えてる?

兄:妹がいってたように、うちの家は保守的な価値観が強めだったから、そういう影響は幼少期から受けてると思う。

家の外だと、誰かに何か言われたという記憶はあんまりないけど、わたしは中学受験をしたから、小学校高学年になると塾へのコミットが高まって、基本男の子しかいないクラスで過ごす時間が増えた。中高は男子校だったからなおさらだよね。そういう環境からはかなりの影響を受けたと思うので、中学受験期くらいが契機になってる気はするかな。

男子校はヤバい?

P:私は最近、次の同人誌へ向けて中学受験についてちょくちょく調べてんねんけど、たまたま見つけた、柳沢幸雄『母親が知らないとヤバイ「男の子」の育て方』(秀和システム, 2017)という本が、さっきいった「神経学的セクシズム」を強化するような典型的な本だったので、ここで批判的に取り上げたいと思います。

母親が

兄:タイトルからしてヤバそうな雰囲気が漂ってるけど、著者は、開成中学校・高等学校の校長をやっていたひとなのね。

P:そうそう。それで、ページをめくるとさっそくこんな文章が出てきます。

昨今の世の中は社会的には男女平等で、男性も家事をするし、女性も仕事を持ち、それぞれが活躍しつつ、協同しながら暮らすことが当然となりました。けれど、社会的には性差別はなくなっても、生物学的には男女の性差は厳然とあります。

のっけからヤバい。そもそも、社会的に性差別はなくなってないし。

兄:特に、2018年に発覚した医学部不正入試問題の後だと、教育者のこういう言葉は空疎に響くね。

P:ヤバいところを挙げていけばキリがないんだけど、例えば、「“コツコツ”は女性の特徴」、「男性は体力に任せて“ドカンドカン”と勉強し、働くのが向いているように思えます」みたいな男女のステレオタイプな言説は、中学受験業界のみならず教育業界全体にはびこってるなと思う。

兄:そういえば、中高のころ「本番に強い○○生」ってよく言われたな。いま思えば、教師側にしてみたら、生徒のプライドをくすぐる使い勝手のよい言葉だったんだろうけど、そういうステレオタイプを強化する側面には思い至らずに内面化してたのはよくなかったね。

P:なんなら、うちの母親もそういう教師の言葉を内面化してて困ったな。兄は本番に強いけど、妹はコツコツやらないとダメだとか。結局、そういうしわ寄せは女にくるんだよ!!

就活でも、「まともに採用したら女の子ばっかりになる」って人事が言ったりするじゃん。なら、なんで男の子ばっか採るんじゃい!と思うけど、そういう言説の背景にも、こういう「男の子の伸びしろ信仰」があるんやろうね。

女の子が男の子に能力面で劣ると真正面切って言う人は少なくなったけど、男の子が女の子に負けることは認めないというか。医学部入試で女子だけ減点していた背景にも、男の子のコミュニケーション能力の伸びしろ信仰があったよね。

兄:なるほど。「女の子らしさ」は二重底になってるんやね。旧来の「女の子らしさ」を倒しても、そのこと自体も「女の子らしさ」によって評価できるようになってる。

P:このライバルに関する記述なんかも、ジェンダーバイアスが強いと感じるな。

男子と女子とでは、ライバルに対する感覚もかなり違います。女性は、クラスの女の子たちも重要なライバルと思うのではないでしょうか?(略)そして、誰かやらない子がいると、「あの子だけやらない」と批判の声が聞こえてきます。しかし、この点では男子はまったく反対です。クラスの中に勉強のライバルを作る子はほとんどいません。身近な人をライバルと思っても、意味がない。

男子はライバルなんてつくらず、みんなで楽しくやってるらしいわ。

兄:「半沢直樹」とか見たことないんかな。

P:他にも、キモ・ポイントとしては、「『地震・雷・火事・親父』。“親父の命令”は絶対に避けられない」、「子どもの前で父親の悪口を避ける。『お父さんのおかげでご飯が食べられる』」という章などが挙げられるね。内容は推して知るべしという感じだけど。

この校長の思想=開成の教育方針ではないにせよ、男子校の存続意義みたいなものをまじめに考える時期に来てるんちゃう?男子校は、均質な集団を偏差値上位校に送り込むには効率のよい仕組みなのかもしれんけど、価値観もアップデートしていかないと社会とのギャップが広がるばかりでは。

兄:灘中学でビックイシューが出張講義をしたという記事が、ちょっと前に話題になってたけど、ああいう試みはいいんじゃない。

ポピュラーカルチャーと男らしさ

P:『ボーイズ』の話に戻るけど、この本では、スポーツやゲームなどのカルチャーが、「有害な男性性」に与える影響についてたくさん事例が紹介されているよね。とはいえ、基本的に紹介されているのはアメリカの事例が多かったから、日本の場合について、自分の経験を元に振り返ってほしいな。

兄:そうね。わたしは阪神ファンだけど、小学生のころは清原和博に憧れたりしてた。清原は巨人の選手だったけど、当時はまだまだメディアの巨人中心主義が強かったし、松井秀喜がメジャーへ行ったあとのスター選手として露出が多かった。

清原は、デットボールをあえて避けないとか、乱闘を起こすとか、後輩をいびるとか、番長キャラで売ってたけど、そういうキャラに同一化してたころのわたしは、下級生とかにしたら「有害な男性性」を発揮してたと思う。

P:「とんぼ」めっちゃ好きやったね。よく一緒に歌わされたわ。

兄:まったく覚えてない......。ダルビッシュの「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ」とか、桑田の反体罰論とか、少しずつ風向きが変わってきた印象はあるけど、平成時代のプロ野球は、まだまだ昭和っぽい価値観が支配的なカルチャーだったね。

それで、中学に入るとだんだん内向的な人間になっていったから、清原が引退するころには、すでにネタとして見ていた記憶がある。とはいえ、そういうマッチョ性をネタ的に消費にすることも含めて、また違ったタイプの「有害な男性性」を発揮するようになったと思う。

P:ヘゲモニックな男性性から離れても、「有害な男性性」から自由になるわけではないからね。

兄:たとえば、芸人の深夜ラジオとか。ああいうカルチャーには、きわどい下ネタや、芸人間の信頼関係がないと成立しないいじりがつきものだけど、当時は、そういうのが「おもしろ」なんだと思って、無邪気にマネしてた。ちょっと前に岡村隆史のオールナイトニッポンが炎上してたけど、ああいう意識が変わったのって、本当にここ数年という感じがするな。

P:よく録音したのを「これ聞いとけ!」って渡されたな。めんどくさいから聞かんかったけど。

兄:そんな......。あとは、文学や批評にも興味を持ち出したけど、コンテンツそのものよりは、ファンコミュニティのホモソーシャルな雰囲気に影響を受けた部分はあるかな。

中学生くらいのわたしにとって、東浩紀は、自分のオタク的な趣味を知的に肯定してくれるひと、みたいな存在だった。だから、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』(早川書房, 2011)で、東の美少女ゲーム評論を、「安全に痛い自己反省パフォーマンス」、「レイプ・ファンタジー」といって批判した時はショックを受けた記憶があるな。

今でこそ、フェミニズム的な文脈でのオタクコンテンツ批評はよく見かけるようになったけど、あれはいま思えば、特定のコンテンツの消費形態への、「有害な男性性」と結びついた批判という意味で先駆的だった気がする。宇野常寛は、現在、盟友の箕輪厚介のセクハラ問題で苦しい立場にいるけれど、個人的には影響を受けた本のひとつでした。

P:現実世界で会った東浩紀フォロワーの男、マンスプレイニングしてくるやつしかいないから全員きらい。

兄:まぁ、野球もお笑いも文学も、深く影響を受けるくらい好きだったからこそ、自分の中のよくない部分と共鳴する部分もあったという感じかな。当時とはだいぶ雰囲気が変わったジャンルも多いとは思うけど。

ブラザーフッドは可能か?

P:この本では、男の子がある一定の年齢を過ぎると、同性同士で親愛を示すのが難しくなることについても述べてるね。

彼らは最初から、自分たちが感じている周りとの断絶や孤独が、このような男らしさのステレオタイプによって強まっていることは意識しているが、同時に、悲しみや孤立感を表現するのは恥ずかしいことだとも感じている。

セジウィックが指摘しているように、男性同士のホモソーシャルな関係は、ホモセクシャルな関係から切り離されて存在し、同性間の愛情表現を否定することで成り立っている。男の子たちは思春期後半になると、こうしたホモソーシャルの文脈に絡め取られて、同性同士の親密さを手放すことになりがちらしい。

兄:そうね。「ぬるい友達関係を否定して最高のチームをつくりましょう」みたいな言説って、ビジネス書でもよくあるよね。ああいうのって、言ってることはもっともだけど、読者は男性が多そうだし、同性同士の親密さへのハードルを上げることに繋がってないのかな?

最近、ブラザーフッドの困難を感じた事例といえば、東京高検の前検事長・黒川弘務氏らによる賭け麻雀事件かな。普通の友人じゃなくて、本来いつ刺されるかわからない「敵」と、それでもなし崩し的に卓を囲んでしまう背景には、それぞれの抱える孤独があると思った。

P:文藝 (2020年秋季号)の「覚醒するシスターフッド」特集が話題だけど、真のブラザーフッドも覚醒した方がいいんちゃう?

男の子の教育論って、開成の本もそうだけど、男の子が獲得してしまう「男らしさ」について、基本的に諦めのスタンスが多いなって思ってたから、『ボーイズ』の前向きな姿勢はよかったな。女の子が旧来の「女の子」らしさを乗り越えて活躍し始めたように、男の子にだっていくらでも可能性があるわけだから、大人がサポートしていけたらいいよね。今回はこれくらいで。

今回は、本の感想というより、本を踏まえた上で、兄に自分の「男らしさ」について語ってもらうのがメインになった。言語化するのに相当苦労しているようだったが、なかなかよい機会になったのではないか。次は、私自身が「女らしさ」と向きあうきっかけになった本を取り上げようかな、と思っている。いつになるかわからないが、続けていきたい。


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