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没頭時間は瞑想時間

瞑想の意味を知らなかった学生時代

小学校の朝礼で、瞑想の時間があった。
たった5秒。
場合によっては1秒くらいの、目を閉じる時間。

朝礼を始めます。礼。
瞑想。
なおれ。
感謝の歌。

当番の人がこのセリフを言うことで朝礼は進行していく。母校の朝の儀式だ。
(ちなみに感謝の歌は、校歌のひとつようなもの。)
当時は、「めーそーって目をつむることなんだな」としか思っていなかった。
この数秒間の瞑想に特に意味をを見出そうとしなかったし、ちょっとした反抗期に突入しているときは、瞑想と言われても目をつむらないことすらあった。

瞑想ができない

大学生になり、京都のお寺で座禅を体験した。
その頃のわたしは、予定を詰め込めるだけ詰め込んでいて、目を閉じた途端にどこでも寝れる得意技を持っていた。
案の定、座禅のときもすぐに船を漕ぐまで寝てしまい、竹刀のようなもので何度も叩かれ、それを見た友人は肩を震わせながら笑い、巻き添えをくらっていた。

社会人になり、有名な起業家などの有名人たちは瞑想をしていると聞き、何度か瞑想に再チャレンジした。別に起業しようと思っていたわけではないけれど、すごい人の考えていることを理解したかった。
でも何も考えずに目をつむるなんて、寝る以外の選択肢はわたしにはない。起きていようとすると、いろんな思考が頭を駆け巡る。ほとんどがくだらないことや日常のことばかりだ。わたしは雑念の塊なのだろうか。

無になるってなんだろう。
どんな感覚なんだろう。

その不思議な感覚をつかみたい。瞑想という名の魔法をわたしも使ってみたい。
できない経験があったからこそ、未知なるものへの憧れのようなものが、瞑想にはあった。

瞑想ができないわたしが辿り着いたもの

では、瞑想とは何なのか。ここで改めて瞑想について調べてみる。

心を静めて無心になること、何も考えずリラックスすること、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことなどとされている。(Wikipedia)

わたしは気がついた。
何かに没頭しているときは、そのこと以外は何も考えていないのではないか。
何かに没頭しているときは、何も考えない状態に近づけるのではないだろうか。

わたしは幼い頃、実家にあるピアノをひたすら弾くときがあった。
そのときは時間を忘れてひたすら好きな曲を自由に弾き、不思議な爽快感を感じていた。
今思うと、無意識のうちにストレス発散の時間に当てていたのだと思う。

現在は陶芸教室に通っている。
土をこねるとき。ろくろに向き合って土から形を生み出すとき。
ひたすらその作業に没頭して、周りの声が聞こえなくなることがある。

没頭時間は、瞑想時間かもしれない。

それが、瞑想のできなかったわたしが導き出した持論だ。
きっと誰にでも、没頭できる何かがあるのだと思う。
料理かもしれない。走ることかもしれない。
なんでもいいから、自分なりの「没頭時間」を見つけてみると、ちょっと心の中の風通しが良くなるのではないだろうか。

没頭時間をとっておきのものに

わたしにとっての瞑想である、ピアノを弾くこと。
大人になってから、めっきりやらなくなってしまったけれど、心がざわざわしがちな今こそ必要なのかもしれない。
ひとりでピアノを弾くことを、とことん心地よくなるまで突き詰めてみよう。
それが今準備している、「森のピアノ」構想である。

今は場所探しをしている。
おもしろい取り組みをされている「さかさま不動産」にも掲載していただいた。

まだまだ準備段階なので、アドバイスや良い場所があれば、是非教えてほしい。
みなさんの「没頭時間」も、コメントに残してくれたらとっても嬉しい!

最後はお願いみたいになってしまったけれど、この記事を読んでいただいた方の心に、少しでも余白が生まれるきっかけになりますように。

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