お仕事帳(中)

小さい頃、将来の夢を問われる場面では、やりたいことが多すぎて困っていた。毎回答えが違った気がする。ピアノの先生、学校の先生、作家、声優、車掌さん…。「なんでも屋さん」と言ったこともあった。自分はなんでもできるのだと、可能性を信じて疑わなかった。眩しいねぇ。ただ、麻雀プロだけは発想にもなかった。不思議なものだ。車掌さんだけは今でもちょっとやってみたいと思っている。そんな梶田が今までにやってきたバイトや仕事の話。前回の続きです。

お仕事帳(上)→https://note.com/pippppppi/n/n75cf3e23e345

④赤ペン先生的なやつ

③で書いた紙とペンをひたすら数える雑用は本当に我ながら向いていて良いバイトだったが、1回あたりの勤務時間が短かったため、大した給料にはならなかった。

大学の競技かるたの会は週4日練習があり、練習後にはほとんど飲み会があった。位置づけはサークルだったが、部活みたいなガチ度だった。大会に出るには1回2500円かかり、年間10回ぐらいは出場する。遠征となると交通費や宿泊費が重くのしかかる。そして年頃の女の子だからそれなりにオシャレもしたい。料理ができないから食費もかかる。とにかくお金が必要だった。

それで、バイトを掛け持ちすることにした。

周りには塾講師のバイトをしている人が結構いたが、私は人に対して口で分かりやすく説明するのが得意ではなかったから塾講師はちょっとなぁと思っていた。ある時、「添削」のバイトの求人を見つけた。小学生の国語の記述問題を添削する。これなら対面で教えるわけではないし、文学部の私に向いているかもしれないと思って応募した。ちなみに進〇ゼミではない。

解答に必要な要素がいくつか用意されていて、それが書いてあったら褒め、書いてなければ導くように順序立てて説明する。国語の記述問題に「正解」を求めること自体どうなんだという議論もあるだろう。だがそういう根本の議論はバイトの身には関係ないので、与えられた仕事をこなす。

解答用紙の中央に記述の欄があり、その四方の余白をコメントで埋めていく。赤いインクのペンを使うため、書くことを頭の中で整理してから書かないといけない。大体、1時間に4枚添削できるようになれば優秀な添削者だ。確か、働く時間×何枚は達成しないと帰れないというノルマがあった気がする。最初のうちは結構難しかったが、すぐに慣れた。

小学生のうちから中学受験のために塾に行くなんてすごいなぁと、解答用紙ごしに顔も知らない生徒のことを思い浮かべていた。出身の福井県では、特に私の世代では、中学受験をする子なんてほとんどいなかった。都会の子は大変だなぁと思い、親も経済力が必要だから大変だなぁなんて思った。

解答のレベルはさまざまで、ピシッと模範のような解答を書いてくる子もいれば、縦書きの解答用紙に左上から記述してしまうような子もいた。微笑ましい誤字に癒されるという、母性なのか何なのかよくわからない感情が芽生えた。

社員が数人と、バイトが30人ぐらいいただろうか。バイトには学生や主婦、バンドマン、役者の卵などがいた。いい意味で変わっている人が結構いて、休憩時間の雑談は楽しかった。ある時、女性の先輩5人と一緒に大井競馬場にも行った。初めて見た競馬は楽しく、馬が美しかった。

2011年3月11日の東日本大震災は、添削のバイト中に発生した。人形町のボロいビルの4階で作業していて、めちゃくちゃ揺れた。悲鳴を上げている人もいた。全員ビル外に出る。社員が話し合っている。他のビルからも続々と人が出てきて騒然としている。私は妙に冷静に、上空から落ちてきそうなものがないか、周りに倒れそうなものがないかを確認していた。ボロいビルの水道管は破裂して、水がザーザー溢れ出ていた。

その日の作業は中断して帰って良しということになった。荷物をまとめて駅に向かったが、電車は既に止まっている。住んでいた早稲田駅(所沢から引っ越していた)までは、人形町から地下鉄13駅分離れている。私はその時も何故か冷静で、まずコンビニに行って水とパンと紙の地図を買った。携帯は電池がなくなってしまうといけないから、携帯の地図アプリよりも紙の地図を使おうと思った。水は最後の1本だった。休憩しながら約5時間歩き、無事に帰宅した。

その後、人形町のボロいビルは使えなくなってしまい、添削のバイトは代々木に移転した。2年ほど経った時、「点検」という作業を任されるようになった。添削者が赤入れしたものを、更にチェックする。誤字がないか、説明が論理的におかしくないか。気になることがあって添削者に確認や指摘をするときはドキドキした。大体が年上の人だったから。いい社会経験になった。このバイトは大学卒業まで続けた。辞める時、お姉さんみたいな先輩が手縫いの可愛い小鳥の人形をくれて、福井で就職してからずっと車のミラーの所にぶら下げていた。


⑤個人経営の居酒屋

東日本大震災後に紙とペンをひたすら数えるバイトがなくなってしまった。だが、お金が必要だったから、添削と何か掛け持ちすることにした。たまたま住んでいたところの近くの個人経営の居酒屋が求人を出していたので、そこで働くことにした。

居酒屋のバイトは、吐瀉物の処理とかするんだろうなぁと思っていたが、そんなことは一度もなかった。江戸川橋という場所で、客層は落ち着いた大人が多かった。店はこぢんまりとしていて、料理はどれもおいしく、良い感じの居酒屋だった。お酒も豊富に揃えていた。

ある時、店長から「琴理ちゃん、ハンバーグ作ったことある?仕込み手伝ってほしいんだけど」と言われ、顔をこわばらせながら手伝った。ハンバーグの種をペタペタやって空気を抜く作業、と言えばいいのだろうか。「こうですか?」ペタペタ。「うん、やっぱりいいや。机ふいといて」。苦笑いされた。それ以降、厨房で私が料理に関する仕事をすることはなかった。ホールの鬼と化した。

常連のサラリーマン2人組がいた。私でも名前を知っている企業だった。年頃は中年。2人のうち金髪の方が、私の誕生日にヴィヴィアンウエストウッドのマフラーをくれた。居酒屋のバイトに渡すにしてはとても高価なものだと思う。戸惑ったが、返すわけにもいかないので受け取った。そしてそのマフラーは可愛かったから使っていた。金髪さんに「一緒にディズニーランド行こう」と何度も言われたが決して行かなかった。それとこれとは別だ。ヴィヴィアンウエストウッドのマフラーは本当に可愛くて長く使っていたが、一昨年メルカリで売った。

夜の時間帯に受けたい授業が増えたので、居酒屋バイトは1年ほどで辞めてしまった。


⑥試験官

とにかく大学時代はお金が必要だった。バイトしてもバイトしてもすぐにお金がなくなってしまう。何に消えていたのか分からない。多分飲み代だろう。単発で試験官のバイトも入れていた。TOEICとか、大学受験とか。

試験官は淡々とやるだけなのでさほどエピソードもないが、大学受験の試験官で懺悔したいことがあるので、それだけ書いておく。

学生数がとても多い大学だから、受験者数も多く、したがって試験官の数も多い。インフルエンザ等が流行る季節でもあるから、試験官は何人か多めに確保していたようだ。

ポンコツな私は、持ち物に「腕時計」と書かれていたのに、当日持っていくのを忘れてしまった。そのことを受付で謝罪すると、控え要員に回された。控室はぬくぬくと暖かく、やることがないので試験が終わるまでずっと本を読んでいた。それで日給をもらった。今までで一番いいバイトだった。本当に申し訳ありませんでした。

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