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無言の恋人

荒い質感の肌が私の手の甲に触れた。満員電車のなか息苦しくもだえながら、こんな老体がその一員に加わってしまっている申し訳なさに体も心も小さくなっている時のことだった。

普通、こんなすし詰めの状態で手が触れあった程度で謝ることはない。それでも彼は私に接触する度に「すみません」と消え入りそうな声で言ってきた。
そのうちに少し乗客が排出され空間が生まれても、彼は離れることはなかった。二の腕や甲同士が触れるだけだったものが、時間がたつにつれて手のひらで私の甲を包んだり、体を寄せて密着させてくるようになった。

その様子のおかしさに、さすがに痴漢の二文字が頭に浮かんだ。私は男で、それもしなびた爺であるが、彼はどうにも私の体を求めているようだった。しかしそこに性的な匂いはなかった。まるですがるように触れたり離れたりを繰り返しながら、その度にまた独り言にもならないような小ささで「すみません」と呟くのだった。

私は触られるがままになっていた。嫌悪感や恐怖はなかった。
彼の熱い手のひらが私の冷たく乾いた肌にあたる。その体温を奪う度に、どこか安心するような、高揚するような気持ちだった。もはや何の役にも立たなくなった私を求めてくれていることが、心に火を灯すのを感じていた。

小さな手を包む大きな手。それにもう一方の手を重ねたのは、無意識のことだったと思う。
彼は慌てて手を抜き、今度ははっきりと謝った。

「いいんです」

そう言って、また私から手を重ねる。
先程よりすこしだけ冷たい彼と、すこしだけ温かい私。
それからはもう言葉はなかった。

無数の乗客達のなか、誰にも知られぬ細やかな情事だった。
彼になにがあったのか。なぜそんなに消えそうな声をしているのか。なぜこんな老人を求めずにはいられぬほど追い込まれてしまったのか。
それを知っても包み込めるような力は私にはない。そして彼も、この無力さを抱き締めることなどできないだろう。

だからか、最後まで目が合うことはなかった。

ただ、それでもあの瞬間だけは、私達は恋人だった。





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