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感想 村井俊哉『統合失調症』岩波新書

村井俊哉『統合失調症』 岩波新書

 統合失調症 Schizophrenia という言葉を聞いたことはあるだろうか。

 かつては精神分裂症と呼ばれていたこの病気は、有名なところではドイツの詩人ヘルダーリンやフランスの彫刻家カミーユ・クローデルが発症したとされる。現代日本においては、インターネットの一部で有名な aiueo700 が分かりやすいかもしれない。あるいは「糖質」と言えば分かってしまう人もいるかもしれない。

 度々、人文系の人間に「狂気と天才」あるいは現実を突破する何か、などとされ、また大衆によって単なる「基地外」というコンテンツとして消費される病気。しかし、実際にどのような病気なのか知る人は多くないと思う。私自身よく理解しているとは言い難い。

 本日紹介する本は、その統合失調症を簡明な表現で、極めて現実的に描写する。

信仰でもなく恐怖でもなく

 既に触れたが統合失調症に対しては様々な態度がある。例えばハイデガーやドゥルーズはそのテキストで精神分裂症(統合失調症)について論じている。確かにそれらは面白く、多くの示唆に富む。

 しかし、それらは思索であって、現実に我々の近くにある病に対して、有効な知見を示さない。あるいは、幻覚や異常な言動をもってそれに恐怖し、分からないものとして、消費しても有効ではない。神秘や恐怖から、実存する病を特殊なものとする行為は、実存するそれに対して有効ではないし、愚弄する行為とも言える。

 この様に書くと、精神分裂とはアナロジーである、と指摘される。それは一部正しいと思う。しかし、全くアナロジーであると、少しも現実に存在する統合失調症患者に対する一義的にアクチュアルな言明ではないと考えているだろうか。つまり、多少なりとも、その様な言説で現実に存在する統合失調症患者を考察しているのではないか。繰り返しになるが、統合失調症というアナロジーも否定しないし、実際に統合失調症を人文的に考察することも否定しない。しかし、それは概念についての考察になるだろうから、現実に、生活に存在する、統合失調症患者への即時的な考察とはならない。

 本書は、科学的知見から、あくまで現時点で一定の確度のある情報を記述する。決してロマン主義に陥らず、またいたずらに感情を煽らず、誠実に記述する。本書が優れるのは正しくこの点であると言える。本書はまた、人文的なものを軽視はしない。それにはそれの意義があるとする。その上で、現代においては科学的次元で捉えられるものだとする。

統合失調症って何だろう

 やはり重要であるのは、統合失調症がどのような病気であるかだ。本書は、まず統合失調症患者の事例を紹介し、どのように見えるかを描写する。そして、その症状・経過を説明し、仮説ではあるが原因も紹介する。また他の病気との違い、統合失調症の歴史、社会での扱いを記述するなど網羅的に解説する。繰り返しになるが、オイディプスもリゾームも出てこない。

 あまり詳しく内容を紹介しては迷惑になってしまうが、本文からいくつか抜粋する。

統合失調症というのは病名です。一方で、これから説明する幻覚や妄想は症状です。〔中略〕医師が判断するのは、個別の症状です。どの症状がありどの症状が無いということを判断し、それらの持続期間などの情報も組み合わせ、公式の判断基準に照らし合わせ、統合失調症という病名に相当するかどうか判断する p.19

つまり、統合失調症とは何か「統合が失調した」状態があるのではなく、いくつかの症状が集まった状態を指すに過ぎない。そしてその症状には、主に精神病症状、陰性症状がある。ここで著者が注意を促すのは、「精神病」という言葉についてだ。

「精神障害」や「精神疾患」が、精神科の扱うすべての病気の総称であるのに対して、「精神病」というのは、様々な精神科の病気にみられる様々な症状のうちの特定の症状を指す言葉です。〔中略〕より正確に言えば、幻覚、妄想といった複数の症状の組み合わせであり、しかし病名ではありませんので、症候群ということになります p.26

 更に著者は、「精神病」とは重度の精神障害ではない、この言葉に特別重もい意味を感じないでほしいとする。先ほどの統合失調症という言葉の意味といいい、一般に解されるところと医学の用語は異なるため、言葉だけを見てやたらと恐怖や思考を進めることはナンセンスだろう。

統合失調症の経過は、前駆期、初回エピソード、寛解と再燃、慢性期と分けて理解することができます p.43

 前駆やエピソードは本文で簡明な解説がなされているため省くが、個人的に重要であると感じたのは、統合失調症は寛解と再燃のある病気ということだ。つまり、(数か月単位で見たとき)常に症状が出ているわけではないということだ。発症してから10年単位で時間が経てば、一部の人はその症状が消えるが、大半は何らかのかたちで残るらしい。以上を踏まえれば、一度発症すれば完全に人生終わり、といったわけでもなさそうだ(当然発症していない人間と比べれば大きな差はあるが、ネットで作られる糖質的イメージとは異なるだろう)。

 著者は、病気の予後について、リカバリー(長期間の寛解、仕事や学校などの社会でうまくやれていること、患者自身によるよい状態という自認、この3つの合わさった状態)が、全体の中で7分の1であるとする(pp.52-53)。さらに、良好な健康状態を0とし、死亡を1とし、その間で病気の状態を示す指数(障害重みづけ)でも、慢性期でさえ、重度・中等症のうつ病と同程度であると紹介する(p.54)。そこで、「もう一つリカバリー」という概念を考える。

病気の症状によって予想していた人生を方向転換したこと、それはその人にとってマイナス以外の何物でもないのでしょうか。〔中略〕統合失調症を持つというつらい体験も含め、そしてこの病気の再発に気を配りながら今後も暮らしていくということも含め、新しい人生を自分の人生としてしっかり受け止めることができている、〔中略〕こうした状態のことを、やはり「リカバリー」という言い方をするのです。 pp.56-57

 著者も認めるが、「もう一つのリカバリー」は、通常のリカバリー即ち医学的リカバリーとは大きく異なる。正直な感想として、このような概念を用いらなければならない程には、治りづらく大変な病気なのだと思う。しかし、そもそも我々の「健康」「病気」という概念は定量的には図り難いものであることを考えると、現実的であり、また妥当であると思う。多くの精神障害の判断基準に、その症状が社会的な機能障害を起こしていることがある。症状が残っていたとしても、社会的に、また個人の生として重大な欠陥がないのであれば、それは一種のリカバリーであるとみなしてもよいと思う。

 最後に、偏見を生みやすい原因について感想を述べて終わりとしたい。

「統合失調症は原因不明の病気である」と言うのが、もっとも正確でしょう。ただ放っておくとどうしても、「母親のせい、家庭環境のせい、現代社会の巨悪のせい、近代文明が産み落とした鬼っ子」なだとという言葉あちこちから聞こえてきそうなので、私自身は、まだ十分な証拠がない中で、「脳の病気」であり、他の身体の病気と同じような「普通の病気」であると、あえて言う pp.81-82

 統合失調症の原因やリスク因子は何なのだろうか。それは遺伝によるものなのか、環境によるものなのか。

 アメリカや日本といった大局的な地域差はほぼなく(pp.82-83)、「移民」と「都市居住」には罹患との間に関連があるものの、その因子による発症リスクは2-3倍程度でしかなく、その機序も不明である(pp.85-88)。つまり、環境については明確なものではない。
 遺伝については、一卵性双生児と二卵性双生児との比較、養子研究から関係があるとされる(p.92)。ただし、「第一度近親に統合失調症を持つ人がいる場合の相対リスクは10倍程度、第二度近親の場合は2~3倍」である(p.94)。遺伝率としては10%程度となる(p.95)。

  著者は「素人感覚」も、人文的な考察も否定する。素人の感覚は、素人故に単なる偏見であるが、学者の考察というのはたちが悪い。概念の連想で、データを知らずに最もらしい論理を組み立て、それをもとに更に論理展開をしているのだから、自身らで一定の強度があると思うのだ。これは、社会学などにみられる悪癖だが、現実と学説が矛盾するとき現実を否定する。社会問題についてはそれでよいかもしれない。というのも、その多くは安易にデータとして科学的な探求が可能なものではなく、常に異なる可能性が思考される意義はある。しかし、統合失調症は病であり、医学的な研究が進んでいるため、安易に言説を組み立てられないだろう。

 私自身は、人文系を好むから、自己批判をしながら本書を読んだ。人文的な考察が全くの無意味だとは思わないが、科学的な事実を基にして、どこまで人文的に考察してよいかの見極めは必要であると思う。特に哲学的考察とは次元を異にすることもあるため、必ずしも現代の精神医学と対立するものではないとも考える。しかし、やはり、科学的事実への謙虚さは必要だ。

 統合失調症について知りたいあなた、実際に関係しているあなた、多くの人におすすめできる一冊だ。 

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