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死のうとした夜の話ー鬱病pizzaの場合ー


いつか書こうと思ってたことを書いてみる。

いくら、命の大切さを分かっていても、"死にたい" "消えたい" という衝動はいつでも襲いうる病気にかかっている私。



25歳、秋に鬱病の診断が正式に出され、保育士を6年目の年度途中で退職。

このときは、心も体もわけがわからない状態だから、感情の整理も何もない。

自分の鬱年表のどのあたりだっけ?
詳しくは覚えてない。
一度目のパートに出る前か、出てからか、忘れてしまった。




一度、本当に死のうとした夜のこと。




とかく25歳頃というと、周りが結婚出産ラッシュで。
特に私の周りは、本当に、異常に早かった。

私は働き始めてから仕事漬けで、勤務時間外、休日も書き物やいろんな準備をしないといけないワーカホリックな生活。ようやくLIVE遠征という楽しさと出会ったのも束の間、突然、健康な心身を失い、仕事も失い、ひとに会うこともできない状態になっていた。

そんな中、周りはいつの間にか人生のパートナーを見つけ、その相手と結ばれ、家庭を持って、人生を進めている。

こんな私とつながっていてくれる友人はだいすきだし、心からしあわせを願うので、おめでとうの気持ちだ。

鬱病になる前にひとり、なってからもひとり、結婚式の友人代表のスピーチをした。死ぬほどあがり症だけど、こんな私が求められること自体嬉しいのでがんばった。また、2人目は大の仲良しで、私の病気に対して配慮する様子もあったが、「やる、やりたい」と自ら引き受け、仙台まで赴いて参加でした。彼女の結婚式には絶対に出たかった。出られて本当によかった。


ただ。


周りの結婚、出産があまりに続くと、

”自分は何をしているんだろう、、、、、、”

と、心が堕ちていく。


ワーカホリックになっていたあの頃だって、たまに複数の友人と集まる機会があると、みんな付き合っただの別れただの、あのひとは結婚しただの話している。

「pizzaは今どうなの?」

と、自分に話が回ってくるのが嫌で嫌で仕方なかった。

だって、なんにもないんだもん。

だから、確実に気まずい空気になる。


ごめんね、、、、、、


24時間、脳内は保育のことでいっぱいで、誰かと付き合おうとかそんな場に行こうとか考えるいとまもない。

逆に、みんなどうしてそんな暇があるの?

私に、いわゆる ”プライベート” な時間とか、体力気力がなかった。もっと、要領の良い、体力のある人間だったら、いくらでも時間なんか作れただろう。でも、とにかく毎日、、、、、、


からの、闘病生活。

こうなる前に、例えばパートナーがいたとして、もちろん重圧で逃げられるかもしれないけれど、心の支えになってくれていた可能性もある。

心が動く状態になってからは、特にそんなことを考えたりもした。


家族以外と話さない、会わない生活。

友人とは、連絡を取りたい時期も、全くとりたくない時期もあった。

向こうの状況を知ったところで、しあわせなら自分と比べて悲しくなるし、逆に大変だったら心配しすぎて具合が悪くなる。心が動きすぎてしまうのだ。そんなときはメールやLINEはできなかった。

ただ、誰かに今の思いを吐き出さないと潰れてしまいそうで、一方的に伝えられる手段、”文通” に付き合ってくれる友人とやりとりしていた時期があった。

その時期を過ぎ、連絡をとりたいな、と思い始めると、今度はみんな主婦としての家事や子育てに忙しくなって、なかなか時間が取れなかったりするようになる。


”私は、みんなのどこにいるの?”


なんて、思い始める。



だんだんと、現実の生活、この先の自分について、危機感が増してくる。

「ゆっくり」「焦らず」

なんて言うけれど、

私の大きな夢は、


結婚して子どもを産むこと。


ただの周りに対するやきもちではない。

子どもがだいすきだからだし、それが

”当たり前のしあわせ” なんて言えるものではないことも知っていた。


でも、

今の自分がおかれているこの状況。

パートナーを探せるような状態でもない。

社会にも出られない。

このまま30代、いずれ40代になる、、、、、、

より安全に出産するには、ゆっくりなんてしていられない。

でも、焦ってはいけない、、、、、、



こんな夢、叶うのかな。

昔は、当たり前に25歳ぐらいで結婚して、30歳くらいには母親になっている人生しか考えていなかった。

こんなはずじゃなかった。



私は、とりのこされた。


目の前に見えるのは、もう、取り返しなんてつかない人生。


一生懸命働いた仕事で、子どもたちのためにがんばったけど、子どもたちを守れなかった。

社会にも出られない。

ほかにできることなんてない。


いつ治る病気とも分からない。

治るなんて思えない。


このまま、誰とも関わることなく、ずっとこのまま、、、、、、





、、、、、、生きるの、意味ないな。





とある夜。



このまま私が消えたとしたら、どうなるかな。


、、、、、、と考えてみた。


友人にはみんな配偶者、パートナーがいる。

母にはなんだかんだで父がいるし、妹にも彼氏がいる。


悲しんでくれたとしても、一瞬だ。

みんな、頼れる相手がいるわけだし、私ひとりいなくなったところで、また人生を進めていくだろう。


うん。


大丈夫。





もういい。



すぐそこの、

踏切まで行こう。




血は見るの怖いから、刃物でなんて無理だし、

線路に出ていれば、一瞬だ。





もう、終わりにしよう。


みんなに迷惑かけながら、苦しみながら、先の見えない人生なんて生きたくない。もう。







、、、、、、、、、、と。




思ったとき、






脳みその、右上辺りで、



「今のあなたはやばいよ」


「このままだと、本当に死にに行くよ」



、、、、、、と、言われた。



これが誰かは分からないが、

今考えると多分、もうひとりの、冷静な、俯瞰で見ている自分自身かな?


そんな感じの、意識に導かれて、


誰かに、今の状況を伝えてみようと、思い立った。

親には言えない、だからって、友人の誰かに直接、はちょっと、、、、、、


LINEの、タイムラインに書いてみよう。


ということになった。(脳内で)



とはいえ、各々忙しいし、反応なんてすぐにくるわけない。




やっぱりな。




でも、さっきの、脳みその右上辺りの住人が、

”諦めるな”

と指令を出す。



いちばん、やりとりする仲良しにLINEしろ。

それがダメなら、次はアイツだ。



、、、、、、アイツ、というのは、


独身の、仲のいい男友達。



「助けて」



と、送信した。




いちばんの仲良しは、案の定主婦業で忙しくすぐに返信はない。


脳みその右上の住人の指令通り、アイツにも同じく送信した。




、、、、、、、、、、すぐに。



「どした⁈」



、、、、、、、、、、きた。



「タイムライン見て」


と一言、送った。






「生きたくても生きられないひとがたくさんいるのに、何言ってるんだ。」




これが返信だった。




愕然とした。




でも、自分のつらさをわかってもらえないことが苦しくて仕方がなかった私は、悔しくて、反論した。

なんて言ったかは、覚えていない。

ただ、

このとき、

女友達とはできない ”ケンカ” を、”アイツ” としていた。



「もし、同情を求めるのであれば、他のひとを頼りな。俺は、そういうのできないひとだから。」



最終的には、こんな感じで言われて。


そのあと、どう収集したのかも覚えていないけれど、

確かなことは、




否定的な言葉であっても、

あのとき、あの瞬間に反応してくれたおかげで、

私は死ぬことをしないで済んだ。




普段、言いたいことが直接言えない私は、ケンカなんてほとんどしたことがない。

でも、あのとき、

”理解してもらえない” から死のう、じゃなくて、

”理解してもらえない” ことが悔しい、と思って、

気持ちを相手に吐き出せたことがよかったのかもしれない。


”アイツ” とは、その後も連絡をしばらくとりあっていた。


同性には、言いたいこと吐き出せてなかったかもしれない。

個人差があるだろうけど、同性の友人より、異性の友人の方が言いたいこと言えたり、楽に話せたりすることがある。

女同士だと、リアルな話にしかならないし、近況報告しあうのが嫌だし、面倒なこともある。


今はあまり連絡はとらなくなったが、”アイツ” は私の命の恩人だ。




鬱病患者に「がんばれ」「早く」など、言ってはいけないとされる言葉がある。

今でこそ有名になってきたが、もちろん、これは患者を苦しめることになるので使って欲しくない。


でも、

何か言って傷付けたら、とあまりに恐れて、緊急の場面で言葉をかけられなかったら、、、、、、

もし、自分が「死にたい」と言われた側だったら、、、、、、


なんて言葉をかけるだろう。




自分にこんな経験があるからって、偉そうには言えない。


本当は、私がこんな経験をしたので、

死のうとしているひとには言葉を選ばずに、早く反応を

、、、、、、なんて言おうとしていた。



でも、これはあくまでも「鬱病のpizzaの場合」にたまたまこうなった、というだけの、単なる一例であって、

全人類に当てはまるなんて言えない。



「共感して、話をきいてあげましょう」

「相手の言うことを否定しないようにしましょう」

「死なないということだけは約束しましょう」


自殺予防のガイドライン的なものに、「死にたい」と相談されたときの対応としてよく書いてあるのは、こんな感じのことだ。


でも、実際、鬱病の今の私だって、誰かに「死にたい」と言われるかもしれない。

私は今、感情移入過剰なので、そのひとの苦しみを受け止めてしまったら、自分が倒れてしまう。

そう考えたら、こんな理想通りには対応できないかもしれない。


そして、否定的に対応されたことで、逆に今ここに生きている自分もいる。

相手との関係性もあると思う。




体験をもとに、何か読んでいただいた方の参考になれば、と思って書いていたはずなのに、、、、、、




みなさんなら、「死にたい」と言われたら、どうしますか?



確実に言えるのは、

「死にたい」は、親なんかに言えない。

本当に信頼している、家族以外のひと、そのひとに、

かなりの勇気を出して、伝えている ということ。

口癖のように言うひともいますが、本気のときは、おそらく、分かります。


「いなくなったら困る」「あなたが必要なんだ」

ということは、言ってもらえると心のつかえが楽になるかもしれない。

孤独で、仕方がない状態だから。


これだけは、どんな理由で「死にたい」に追い込まれたひとにも、当てはまることだと思うのです。




ただ。


そのひととあまり関わりがないのに、しつこくそのようなことをLINEなりなんなりで言ってきたり、やさしくしたら頼られてしまって、自分の心が巻き込まれそうになった場合は、思い切って逃げていいと思います。

自分が元気でいられないと、本当に大切なひとを守れない。

そういう経験をしたひとも知っているので、、、、、、




私はまだ心の治療過程にあり、

「死にたい」「消えたい」がいつ襲ってきてもおかしくない状況が今もなお続いていて。

今生きていることは、確実にたくさんの支えがあってで、元気になることで恩返ししなくては、なんて思っている、頭では理解していても、

いつ、理性を失って衝動的に命を雑に扱うか、分からない。


でも、誰だってそう。


大切なひとを突然失って、生きている意味を見出せず、、、、、、

突然周りから手のひらを返されて、味方が消え、何も信じられなくなって、、、、、、


誰にでも、「死にたい」が襲ってくる可能性はある。

どんなにポジティブにみえるひとにも。



こんな、どこのだれかも分からない私ですが、

何かあったとき、私みたいなやつがのうのうと、しかし毎日パニックと闘いながら、生きていたっけなぁということを、

思い出していただければ、

幸いです。




しめ方が分からなくなってしまい、ごめんなさい。




今、生きていられることを、いつも感謝してすごせるひとになれますように。


私のように、鬱病で苦しむひとが、これ以上増えませんように。



未熟ですががんばっております。治療費にあてさせていただきたいです。よろしくお願いします。