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異国を知るには、まず文化(聖書)から


異邦人を知るには、まず文化(聖書)ありき。
聖書は、文化を知る為の共通用語だと思っていいます。
  (写真はノートルダム大聖堂の薔薇窓。中央には聖母子がいます。)

わたしの仕事関係の方は、受精卵を作る培養の世界では、細胞と生命の間をリアルで見る世界なので
それが死んだ時なぜなのか?考え検証するためか?
クリスチャンが多い気がします。


自分の為ではなくて、患者さんが時間とお金をかけてこの一瞬にすべてをかけているからだと思います。
また、もうアポトーシス(=細胞の死)しかけているので・・駄目だと思った胚(=受精卵)が復活するのをみるのも
あるので、何か特別なチカラがどこからか働いているをみてきたのもその理由かも知れません。



自分の考えを帰着する着地点がみつけないと、気持ちが収まらなかったです。医療に関わる人はそうした不思議な現象を
みているのでそれが普通のことになってきます。



聖書の範囲はキリスト教でも差がある事実。



私は聖書が大好きなのですが、カトリック教会の方の方ならば誰とでも聖書の話をできるとは限らないです。
私も教会の中でもも聖書が大好きという人以外では、その話はしないです。
というのはカトリックでは、
プロテスタントのように聖書を読み込まない方も、少なくはないからです。

わたしは聖書の話を積極的にしない理由は・・
聖書(The Bible)というと相手がどういう認識でいるのか?相手の背景を互いにしらないと、「え?」ってなるからです。



聖書は信仰の為だけのものではないです。


今日はそんなお話です。海外旅行や美術鑑賞あるいはクラシック音楽や
オペラを楽しむ為もあれば、古代ミステリーを楽しむ為にも聖書の知識は必要だと思っています。
この記事で古代ミステリーの動画サイトでわたしが面白いと思ったものをUPしておきました。
エンターテイメントとして聖書をお楽しみください。

【恥ずかしい30年前過去】
わたしが聖書を知らなかったが故に恥を書いた留学時代

今から30年も前の話です。
わたしは学生の時にフランスの田舎(ブザンソンというフランス東部)に1年間だけでしたが留学したことがあります。
語学というより文学を勉強にいきました。でも 単なる観光客だったかもしれません。恥ずかしい話です。
スイスに近い街ブザンソンからパリまでは400kmほども離れていました。 ド田舎でした。
距離は・・東京から北なら盛岡くらいでしょうか?

フランス人は、わたしにはとても排他的に感じられました。
現地での自己紹介で向こうの友達にわたしはこう言いました。それが恥ずかしいとこも知らずに。

「わたしは、無宗教です。
でも日本は神道の国でして、で神社にみなお参りをしています。八百万の神々を祀る多神教の国だからです。」と口を最初に切ってしまいました。

結果、相手に線を引かれてとても寂しい、そして惨めな気持ちになったことがあります。
無宗教というは恥ずかしいことだとわかりました。



無宗教というのは、彼らは相手に「線をひく」ということをしらなかったのです。
自分の行動の「責任の帰属」がない!その意思すらもない子供以下と見なされました。
自分だけを信じていて、道徳の規律規範を自らの意思でもっていないと思われたのだと思います。

それよりも、彼らが興味をもっていた日本の文化「禅」や「日本のアニメ」も全くわたしは知らなかった。
彼らが喜ぶことを何もGiveできなかったのです。


パリで受けた人種差別


フランスの教会に友達に連れていってもらっても、美術館に連れていっても聖書のベースがないから
たとえば、その絵が聖書のどの教義のことをかかれているのかわからないと、何も感じないんです。
だから知覚のアンテナも出てこないから、苦痛でした。こんな素敵なところを来ても何も感じなかった。
パリに行っても、彼らが案内してくれる名刹の価値が全く理解できなくて、フランス語を勉強にしにきた君は観光目的なの?
フランス語でも英語でもそれはタダの道具だから、君は将来何をしたいの?けちょんけちょんでした。
あげくの果ては、アジア人ののっぺりした顔をしていたから、レストランで他の白人のお客さんに「アジア人はあっちに座れ!」とか生まれて初めて人種差別を受けました。いい勉強になりましたが。

もともと私は10代の頃から日本史だけは好きでしたが、世界史になると全くだめでした。イメージがつかないんですよ。
それぞれの国の時系列が 他の国のそれとどうつながっているか?
たとえば 日本の鎖国時代に ついさっきまスペイン・ポルトガルがこなくなって変わりにイギリスとオランダが貿易にくることに
なったと習ったと思います。 思考がそこで終ってしまうですよね。
その時、なんでスペイン・ポルトガルがこなくなったのだろう。海の上 海の向こうで一体どんな事件があったのだろう?
とまでは思ってはいるのですが、そこから自分で調べようと思わないから、それに慣れてしまうんですよね。10代の頃は。

そして大きくなってから、スペインとか旅行でいっても
なんでこの国は、カトリックとイスラム寺院がこんなにもあるのだろう?とチラっと思っても思考がそこで止まってしまうんですよ。
まあ 美味しいものを食べればいいやと。

旅行の目的は人それぞれです。
旅先で名刹を弾丸ツアーで回りたい派もいれば、
バルでひたすら酒を飲みまるぞ! ビーチでのんびりしたい!とか色々な目的があります。
一緒にいく相手と同じ価値観を持っていないと、旅行はそもそもプランそのものが成立こそしないと思います。


この価値観というワードが、互いの「何か暗黙の了解」という感じがします。私は。
相手とその暗黙の了解を共有していないと、旅そのものがつまらなくなる。
相手に強引にあわせて旅をする程苦痛はないでしょう。もちろん、相手が喜べはそれでいいとからと考える人もいるでしょう。
日本の旅行ならばまだコスト的に許せるのですが、海外だとどうですか?


「何か暗黙の了解」の正体はなに?

話しを戻しましょう。
「なにか暗黙の了解」というのは文化のベースになっているものだと思います。
だから、育ってきた環境で文化がまるで違う。いいお家の出か否かとはまた違いますよね。
反りがあわない=価値観が合わない=文化が合わないの 恒等式は 育ってきた環境で何を感じてきたか?だと思います。

私は世界史から、キリスト教美術に興味をもち、その教義をしらないとわからないから聖書を学びはじめたのは20代の頃。
旧約聖書は分厚くて良くわからないから、新約聖書から入っていったのですが
あの薄さをみてもわかるように、シンプルに洗練されていて例え話も多く行間を読む為には、旧約聖書をしらないと
かかれている事の関連性がまったく繋がらずチンプンカンプンでした。

でも 継続して読んでいるといつか点と点が繋がるですよね?だから聖書は面白いのです。

聖書は仏教のお経とはまるで違います。それを読むことで現世利益を得るものではないです。
聖書は多くの書で構成され、各書は異なる時代に異なる作者によって書かれたのですが
全体は一つの意図で貫かれている。メイン・コンセプトだ。



それは神から人間へのメッセージなのです。
聖書を読む時もこのメイン・コンセプトを見失うと深い森の中で迷うと思います。
クムラン洞窟(パレスチナ自治区、ヨルダン川西岸の死海付近)で1946年に死海文書が発見されたのですが、2000年も前のキリスト教の旧約聖書の古写本断片である
死海文書が何種類も発見されたが、それは現在の聖書の全く同じでした。
つまり、2000年に渡って・・一文字も書き換えれなかった。

それはなぜだろうか? 畏怖からだ。
それは「ヨハネの黙示録」の最後にこうかかれている 【22-18】

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。
これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加える。
また、この預言の書の言葉から何を取り去る者があれば、神はこの書物に書いてある
命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
以上すべてを証しする方が、言われる。
「然り、わたしはスグ来る。」

ヨハネの黙示録 22-18

ここで「預言」とは「予言」とは違うので注意してください。預言とは神の言葉のことです。
死海文書の中の「イザヤ書」の主人公イザヤも神の言葉を伝えるユダヤ人の「預言者」でした。彼は紀元前8世紀のユダ王国の預言者であり、800年後のイエス・キリストの誕生も次のように預言しました。

「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を
・・・
神が来て、あなたたちは救われる。
そのとき、見ない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。

イザヤ書35:4-6「栄光の回復」

つまり 目や耳が駄目で歩けない人、口の利けない人を回復させることが
できるのがイスラエルを救う救世主(キリスト)とメルクマークをイザヤは
書き残した。だから・・人々は800年もの気の遠くなるほどの歳月
救世主を待ち望んだ。そうしたことが出来る人を待ち望んだのです。
 こうした歴史の背景をしらないと、「ああイエスさまは奇跡を起こした人ね♡本当かしら?」で思考がストップしてしまう。大切なのは800年もの
間、ユダヤ人がたとえばバビロン捕囚などで虐待をうけるなかで希望を
捨てずに救世主を待ち望んだというFACTだと思います。それから私たちは
この現代で何を学ぶべきかが書かれているのが聖書だと思います。

聖書への興味という入口が沢山があります。
考古学が好きな人、古代ミステリーが好きな人、キリスト教美術(教会巡り)が好きな人、美術館巡り
古代神道が好きで、古代ユダヤ教との接点に興味がある人。神社巡りに飽きた人。
もちろん、信仰(これは宗教とは同義ではないのは言うまでもない)に興味がある人。



聖書が伝えるものは?

神からのメッセージは、現在生きている人間への智慧である点について

日本では古事記や日本書紀が初めての書物として始まりなので、それよりも古いものがあることにピンとこない人も
いると思います。
聖書は単なる人間が書いたものならばこんなにも長く読まれていないです。
神からのメッセージ。生きている私達へのメッセージ。
聖書は古代における人間の生き方や神への信仰について知る為に読むこともできるし、
以下紹介する単なる興味だけで手にとってもみることもできる。
しかし、ユダヤ教徒とキリスト教は生きる為の哲学書と捉えて読むのではないしょうか?わたしはそうしています。

聖書は難解です。内容をしっかりと理解する為ならば。でも全部理解をしなくてもいいと思います。


聖パウロ


わたしなんて、聖パウロはNO1の論客だったので、人を説得するプレゼンと修辞学にたけているので
パウロの使う「接続詞」の使いかたを勉強してます。文脈のつなげ方とかですね。:D

パウロは相手を論破する為のテクニックをつかってのではなく、異国の「異邦人(=ユダヤ人以外のすべての人)」に
宣教する旅をしていた人です。いつ殺されてもいいと覚悟をして。
そうしたパウロなどの手紙も聖書には入っています。
その他は、歴史、詩、預言、智慧文学、福音書などさまざまな文学ジャンルあると知ることは大事です。
時代が何千年も離れてるので、その時代その時代の聖書の時代(世界史)背景をしらないとポカーンとしてしまいます。

でも重要なのは、まず神が聖書のそれぞれの著者を通じて、何を言おうとしているのか?を明らかにし
次にそのメッセージが今日においても現実のものとなるように求めて読むことだと思います。
わたしは動画などで音声としても、よる睡眠導入としてつかっています。 神様からの子守唄のように安心して眠ることが
できます。テーマはその日の気分で選びます。
単なる物語としても読んでも面白いです。 正義や友愛、永遠の命、冒険。

ストーリーテリングの題材としては鉄板だと思います。その証拠にスターウォーズやディズニーなどもこの聖書の
ストリーテリングをベースにしているからです。人の感情は何千年たとうが大きな変化はしないからです。

【わたしからの提案:古代ミステリーからでも】


聖墳墓教会


エンターテイメントから旅行から入ってもいかがでしょうか?
動画を紹介します。 ペラペラの内容ではないですよ。
古代史に向かって科学者たちが真相に挑んでいく物語です。
エルサレムの墳墓教会というものがあります。

わたしも実際に行ったことがあります。
            
キリストの墓があった場所としてその上に建てらられた教会。
世界中から信者や観光客が訪れる エルサレム観光の「花形」です。

            
【キリスト教最大の謎ミステリー】
 数世紀ぶりに開かれたキリストの墓、
   しかしそれは別人の墓だった?
https://www.youtube.com/watch?v=a7czvt4k8aw

でも・・初期のキリスト教では、イエスキリストの墓とか12使徒たちは重視を全くしなかったのです。
キリスト教は今でもそうですが、墓は単なる記念碑あつかいので、魂はそこにいないと考えられているからです。
だからお盆もないです。あるとしたら11月の死者の月の礼拝です。

旧約聖書をユダヤ人の建国物語として、切り捨てるプロテスタントもありますが、
わたしはローマ・カトリックと東方ロシア正教を支持しているので、その利権が絡んだこの動画は興味深かったです。

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