191217ことばの生活のために

2019/12/17 学びの種蒔き

今の高3は、受験対策講習を日替わりであれこれ行っている。わたしの担当は私大現代文。センター試験対策は別で行っているので、関西の私立大学を考えている生徒が主に受講する。

生徒が受験する大学は様々なので、ピンポイントに特定の大学に向けた対策授業というのは、「私大現代文」の設定では正直なところ難しい。基本的には、勤務校の生徒が主に受験する、いわゆる「関関同立」の過去問を扱うことになる。大学ごとに問題の傾向はあれど、基本的な(土台となる)読み方ができれば、どこの大学の問題であってもよい勉強になる。よそで出たテーマが次に自分の受験校で出題されることもあるので、色々な問題に触れておくことは結構大事だ。教員としてはできるだけたくさんの「種」を蒔いておきたい。(それが受験対策に留まらないものであればなおのことよい。)

今日の授業は、生徒との対話をいつもより多く入れながら進めた。本文の内容に関連させて、自分たちの日常や経験に引きつけて考えられるようにした。大学入試問題で出題される評論だからといって、別に遠い世界の話ではない。生徒の様子から、かなりよく理解できたのではないかという手応えを得た。(いつもうまくいくわけではないから、とても嬉しい。)理解できるから、生徒は設問の解答も確実に選ぶことができる。

自分が受けてきた中高の授業は、中学の英語こそ今流行のアクティブ・ラーニング型だったけれど、基本的にはずっと一斉講義型だった。グループワークなどほとんどしていないし、プレゼンテーションはまったくしていないと思う。でも、自分の頭がアクティブでなかったかというと、別にそうでもない。おもしろかった授業の内容については、今でも憶えているし、当時も関連する本を読んだりして勝手に勉強した。だから、時流や所属する組織の方針など色々配慮すべきことはあるけれど、本質的なところでは、授業のスタイルと学習者のアクティブ具合とはあまり関係がないのではないかと考えている。

とはいえ、それは授業者が工夫をしなくてよいということではない。授業者自身が研鑽を積み、自己をアップデートすることも必要だし、集団や個人に対して学びを促す仕掛けも必要だ。これらは、日々試行錯誤の連続で、はりきって準備したものが空振りで終わったり、あまり注力するつもりのなかったところがおもしろい展開になったりする。

自分の学びの中でおもしろかったのは、やはり大学での授業だ。与えられたものであれ、自分で設定したものであれ、自分で調べて何かしらの結果を得るのは、たくさんの寄り道をすることにもなるけれど、その分発見も多かった。

そういう学びの最初の体験は、高校時代の古文の授業に遡る。3年間担当してくださったのはK先生。先生からの「種」が、その後の学びにつながっている。

あるとき、授業後にK先生が「これを読んでみろ」と一枚のプリントをくださった。紀貫之『土佐日記』青谿書屋本の冒頭部のコピーだった。もちろん当時のわたしにそのことが分かるはずもなく、「なんだこれ」と思ったのだけれど、これが活字でないものの世界の「種」だった。1年の予備校生活を経て、国文学専攻に進んだわたしが最初の演習で出会ったのが、翻刻であり、ひたすら変体仮名を読むためのトレーニングを受けた。ああ、こういうことかとK先生のことを思い出した。

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出典:萩谷朴編『影印本 土左日記(新訂版)』新典社 p17

また別のとき、K先生から古い本をお借りした。藤原与一『ことばの生活のために 表現と理解への手引き』(講談社現代新書)。返却しようとしたら「やるわ」とのことで、結局いただいてしまった。藤原与一氏は広島大学で長く教鞭を執った方言学者で、K先生の恩師にあたる。おもしろく読んで、研究することがなんとなく身近に感じられるようになったことは憶えていても、肝心の内容はすっかり忘れてしまった。でも、その後何冊か藤原氏の本は読んだし、その後、A先生が藤原氏の『小さな語彙学』を紹介なさったときに、「知ってる!」と思えたのが嬉しかったことは憶えている。これがK先生が蒔いてくれたまた別の「種」だ。

翻って今。かつてのK先生と同じく、わたしも教壇に立っている。時の隔たりがあるからこそ、当時は当たり前だと思っていたK先生の仕事の丁寧さがよく分かる。わたしにはとても真似できない。でも、できるだけたくさんの「種」を蒔くことだけは心がけられている。生徒がそのひとつでも受け取っていてくれたらいいなと思う。


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