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「祈り」を習慣化する


神様なんていない。

そう思いたくなる出来事も、
50年近く生きていれば一度や二度は
ある。
だから、神様にすがりたくなる、
そういう気持ちになる人のことも
少しは分かる気がする。

自分自身は、宗教面に関しては
典型的な日本人だと思っている。
初詣には神社へ(神道)、
お墓参りにお寺へ(仏教)、
実家には仏壇があり(仏教)、
結婚式は神父様にお出ましいただいた
(キリスト教)。
そして、自分自身特にこれという
特定の宗教に帰依することなく、
敢えて言うなら

八百万の神様たち

がいらっしゃると考えている。

宗教の話というのは、とても繊細な
話題だ。
何を信じているか、
逆に信じていないか、
その人の「根幹」に触れる話題、
それだけに、おいそれと人前で口に
するのは少々はばかられる。

しかし、人類が生きてきた歴史に、
常に寄り添って来たのもまた宗教
である。
太古の昔から、人智を超えた存在を
人は感じて、恐らくは自然発生的に
アニミズムとか、原始宗教のような
ものが起こってきたのだろう。
そして、「祈り」という行為もまた
そのように生まれたのではないか。

「祈り」には力がある。
エネルギーがある。
そのように感じてきた。
自分が念じただけでモノが動かせる
とか、テレポーテーションできる
とか、そんなオカルト的なことを
信じるものではないが、
量子力学の世界では、それに類する
摩訶不思議なことが色々と研究
されているようだ。

最近読んだ雑誌記事には、人の
意識や感情はフォトンという素粒子
で出来ている、つまり実体がある
のだということが書かれていた。
そして、人の声や携帯電話の電磁波、
TVなどの電波と同様、そのフォトン
という素粒子も振動しながら飛び
回っているのだという。


記事曰く、「嬉しい!」と思うと
そのポジティブな振動を帯びた
フォトンが空中を飛び回り、
「ムカつく!」と思うと、その
ネガティブな振動を帯びたフォトン
が行き交うというのである。

人の意識が伝播する、「以心伝心」
を感じたことのある人は少なく
ないだろう。
それもあながち「偶然」ではなく、
ひょっとしたらそのフォトンの
仕業で、知らず知らずのうちに
お互いコミュニケーションしていた
ということかもしれないのだ。

「祈り」という行為は、
自分を無にして、
誰かのために、
何かのために、
思いを捧げるもの。
「内観」と呼ばれるものや、
「瞑想」と非常に似ている。
いや、共通点が多いと言った方が
正しい。

「祈り」や「瞑想」を生活に取り
入れるビジネスパーソンが増えて
いる、なんていう話も昨今では
よく耳にする。
私自身は、「瞑想」についてかなり
長い間にわたって三日坊主を繰り
返し、なかなか定着しないため、
「瞑想」でも「祈り」でもどちら
でもいいから何とか定着させよう!
そのように考えた。
ハードルを下げてとにかく習慣化
することを優先し、こんなルール
を決めたのである。

鳥居を見たら、一秒でいいから祈る

コンビニの約2倍、10万以上あると
いう神社に加えて、神社とまでは
呼べないが鳥居がちゃんと立っている
場所も日本にはそこらじゅうにある。
それを見かける度に、一瞬でいいから
立ち止まって祈る。
一秒でいいから、心を無にして祈る。

今度こそ、三日坊主にならず、
毎日「祈り」と共にある生活を
続けられますように。

えっ、何のために祈るのかって?
それは一旦「ヒミツ」とさせて
いただこう。

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