博士号は取った。その後はどうやって生きればいいのか? と悩んでいてもしかたがないので電子書籍で読める松下の最近の仕事をまとめて宣伝する。

 僕も多くの読者の皆さまと同じく新型コロナウイルスの影響で「自粛」を「要請」されて収入が激減したり、遠隔授業に関して、ある非常勤先からむちゃくちゃな内容の「対応」をロハでやれという「お願い」をされたりして(もちろん見敵必殺で断った)、目下キレ散らかしているところである。自分のキャリア形成と収入がこんなことで簡単にぐらつくようではこれからの人生本当に不安だわと強く感じたので、とりあえず YouTube と note をやって露出を増やすことにした。僕は結構「嫌儲」的なところがあるのだが、ことは自分の生活の問題であるので、とうとう重い腰を上げて Amazon のアフィリエイトにも申し込んだ。なので「あ、この本買おうかな」と思ったらアフィリンクを踏んで僕に小銭をくれてやってください。後生ですから。

 わが窮状を訴えたので本題に入る。芸術系や人文系で博士号を取ったあとは一体どうやって生きていけばいいのか? これは多くの大学院生やポスドクに共通する悩みである。大学の助手や非常勤講師をやって急場をしのぐとしても、あのような低賃金の有期雇用でいつまでも働けるわけがない。そもそもいまどき、常勤の大学教員の職など存在しないに等しい。どんなに優秀な人間でもこの世に存在しない職業には就けないのだから、学問を継続するつもりなら別のやり方を模索するしかない。人それぞれ生き残り方のプランは異なるだろうけれども、僕は自営業者をやることに決めた。そう決心したのは大学院生の頃である。

 当時の僕は、修士論文と博士論文を学位取得後の「展開性」を確保した一種の出版企画として組み立てるという戦略を考えた。僕の恩師の1人(僕は博士課程で大学を移ったので、僕が先生と呼ぶ人は2人いる)は編集者を経て批評家になった人である。だからだろう。「修士論文は1冊の本の序論、博士論文は本文だと考えて研究内容を企画しなさい」という趣旨のことを修士論文の研究計画書の草稿を持っていくたびに言われたのを覚えている。本の出版に重きを置いていたのは博士論文の指導をしていただいた別の先生も同じで、「とにかく単著を出しなさい」「博論は絶対に本にしなさい」「博論本のあと、2冊目の単著が出せるように今から展開を考えておきなさい」といつも言われたものである。

 おかげさまで、僕は博士論文を改稿したいわゆる「博論本」の『ヘンリー・フューズリの画法』を出版できた。

 これはなにせ博論本だから内容はそれなりに難しいけれども、筆者としては次のような気持ちで書いた本である。以下はあとがきからの引用。

「一口に「絵」と言っても、そこにはいくつかのカテゴリーがある。詳細な議論は美学者や哲学者に任せるが、二十一世紀に生きる我々は通常、「美術」の範囲に属する絵とそれ以外の絵を区別して受容していると言えるだろう。美術館で展示され、大学の美術史の講義で扱われる対象が前者であり、それ以外のあらゆる絵——本の挿絵やマンガなどは多くの場合、美術史研究の対象にはならない——が後者にあたる。だが、カテゴリーが異なるとはいえ、どちらも絵であることには変わりはない。それに私自身、多くの同世代の人々と同様マンガやアニメを見て育ってきたから、美術を行う側がそれらを一顧だにしない状況には常に違和感を抱き続けてきた。」(松下哲也『ヘンリー・フューズリの画法』三元社、2018年、255頁)

 要するにこれは、いわゆる「キャラクター論」に影響を受けた筆者が、その文脈を美術史研究に持ち込もうと考えて書いた(自分で言うのもなんだけど)かなり野心的な本である。19世紀の頭頃にイギリスのアカデミーで活躍したヘンリー・フューズリという画家が今のキャラ絵の描き方のはしりのような授業をしていたというのがこの本の骨子だ。このコンセプトをおもしろく感じてくださった方がいたようで、博論本出版後いくつかの雑誌に「キャラクター文化やサブカルチャーと美術史のハイブリッドになるような原稿を書いてくれないか」という声をかけていただくようになった。それから結構時間がたっているので、自己紹介がてら、以下に博論本出版後の僕の仕事のうち電子書籍で読める論考をまとめておく。なぜ電子書籍に限定するかというと、紙の本の流通も今はかなり限定されてきているからである。こういう現状が本当につらい。

松下哲也「キャラクター・ギーク・カルチャー・バーチャルYouTuber」『ユリイカ2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber』2018年7月号、青土社、181〜187頁。

 これは、当時「どうやら一過性の流行ではなく文化として世の中に定着しそうだぞ」という雰囲気になっていたバーチャルYouTuberを80年代の「デモ」や90年代の「マシニマ」や「MOD」などといったゲーム文化の系譜に置く芸術史の概論である。

松下哲也「プレイングとメタゲーム——〈象徴形式〉としてのゲーム的視覚」『ゲンロン9』ゲンロン、2018年10月、110〜122頁。

 「僕たち現代人がいちばんどっぷり浸かっているメディアはゲームやコンピュータ端末なんだから、現代アートにだって当然ゲーム的な視覚やロジックが反映されていますよ」という論考。僕とほとんど同世代の画家である梅沢和木さんと、一回り若い美術家・ゲーム作家のアランさんの作品を比較したのだが、彼らのコンセプトに「プレイング」と「メタゲーム」の差異が明確に表れていて、書いていてすごく面白かった記憶がある。

松下哲也「ビアズリーの挿絵はマンガの形式に影響をおよぼしたのか?」『ユリイカ2019年3月臨時増刊号 総特集☆魔夜峰央』青土社、2019年3月、 256〜263頁。

 19世紀イギリスの挿絵画家オーブリー・ビアズリーの絵が白黒の2値で描かれていて、描線がシャープでかっこいいから現代日本のマンガに影響を与えている、という話があるんだけれども、作家が影響を受けたという話とマンガという芸術形式に対する影響の話はちゃんと分けて考えた方がいいという論考。世の中マンガのご先祖さまだらけ。どうにかしたほうがいい。

松下哲也「擬人化」『現代思想2019年5月臨時増刊号 総特集=現代思想43のキーワード』青土社、2019年5月。

 事典の形式で編集された同誌に「擬人化」についてのことを書いた。美術史における「象徴」「図像」「寓意」と現代のキャラクター文化のことですね。艦これとか刀らぶとかケモナーとか。

松下哲也「Vaporwaveと「シコリティ」の美学」『ユリイカ2019年12月号 特集=Vaporwave』青土社、2019年12月、193〜200頁。

 ビデオのノイズやらブラウン管の色ずれやらを「捏造」するVaporwave的な絵と京アニや新海誠などのレンズ効果で「盛った」アニメ絵はまったく同じ機能を持つ「シコリティ」の表現であるという重要な指摘をした、個人的には画期的な論考。この「シコリティ」という用語は現代美術家の海野林太郎さんが提唱した概念を僕なりに解釈し応用したもので、アート、サブカルチャー問わず、今日の絵を論じるための重要概念になっていると僕は信じている。

 以上、書き出してみるとなかなかおもしろい仕事をやっているなと我ながら感心した次第。僕は、こういった「美術」と「美術以外」の絵の垣根を越えていくような仕事を継続することでなんとか生きていこうと思っています。だから、この note を読んで「わあ、おもしろそう」と思った方は上のアフィリンクを踏んで読んでみてください。嫌儲マインドダメ絶対!

ほなまた!

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