見出し画像

ジョー クラッキ列伝 第161回   下薗昌記 月刊ピンドラーマ2023年4月号

2014年のワールドカップ・ブラジル大会の準決勝でドイツに1対7という屈辱的な大敗を喫したブラジル代表。ミネイロンスタジアムのピッチに1秒も立つことがなかった長身の点取り屋が2023年2月、サッカー界に別れを告げた。

男の名はジョー。天国と地獄との間を行ったり来たりしながら、ゴールを量産し続けたストライカーは、ブラジルのみならず所属した世界各地のクラブで、時にサポーターに喜びを、時に憎しみを与え続けた問題児でもあった。

ジョーの登録名は、本名のジョアンにちなんだものだが、ジョアン・アウヴェス・デ・アシス・シウヴァが生まれたのは1987年。貧民の育ちだった細身の少年は、天から授かったサッカーの才能と、魔法を生み出す杖のような左足を持っていた。

フットサルを経由して、サッカーに移行するブラジルのプロ選手は数多いが、ジョーは逆のパターンだったという。

9歳ぐらいで本格的にサッカーを始めたジョーが、フットサルも並行してプレー。10歳か11歳の時だったとジョーは述懐する。

「フットサルを経験したサッカー選手はそれがどれほど役に立つか知っている。いかに速く考え、体をうまく使うかが必要になるからさ」

天性のセンスをフットサルで磨いた細身の少年のデビューは衝撃的だった。

2003年7月のブラジル全国選手権。主力のFW陣に負傷者が相次いだこともあって当時のコリンチャンスの指揮官、ジェニーニョは下部組織生まれの少年をピッチに送り出す。

そして8月には16歳3か月29日でインテルナシオナウ相手にプロ初ゴール。当時、クラブ史上最年少ゴールとなったジョーの記録は2019年6月にルーカス・ベレジに塗り替えられたが、ジョーは確かにコリンチャンスの歴史に名を残した逸材だった。

192センチで左利き。デビュー当時、ブラジルメディアは「新しいリヴァウド」とその才能を評したが2005年にはCSKAモスクワに移籍。ボヘミアンなサッカー人生が幕を開けた。

2008年には北京五輪にブラジル代表として出場も、銅メダルに終わり、その後移籍したマンチェスター・シティやエヴァートンでも思った活躍は出来なかった。

エヴァートン時代はクラブの許可なくブラジルに帰国し、処分を受けたこともあったが、2013年に所属したアトレチコ・ミネイロではコパ・リベルタドーレスの優勝に貢献。ロナウジーニョとのコンビで南米を席巻し、2014年のワールドカップメンバー入りを果たすのだ。

しかし、夜遊び癖は治らず、そのキャリアは終わりを迎えるかと思われたが、キリスト教福音派の妻との出会いがジョーを変える。

「改宗した後、僕はアルコールの問題を克服した」

レコルジ局の番組でこう明かしたジョーの言葉に嘘はなかった。

2017年にはコリンチャンスでブラジル全国選手権18得点。得点王として優勝に貢献すると翌年には名古屋グランパスに移籍し、Jリーグで24得点をゲットし、やはり得点王に。

2020年から再びコリンチャンスでプレーするも、2021年にはあろうことか宿敵、パウメイラスを想起させる緑色のスパイクを履いてプレーしたことに、サポーターが激怒。ジョー自身は「青色だ」と開き直っているが、罰金処分を受けていた。

晩年はクラブとのトラブルが続き、引退の直前に所属したサウジアラビアのアル・ジャバラインとはわずか5日で契約解除。その流れでジョーは現役を退くが、第二のサッカー人生は選手の仲介人になるという。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2023年4月号
(写真をクリックすると全編PDFでご覧いただけます)

#サッカー #海外生活 #海外 #ブラジル #サンパウロ #ペレ
#月刊ピンドラーマ #ピンドラーマ #下薗昌記 #クラッキ列伝 
#ゴールキーパー


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?