アンゴラ編 せきらら☆難民レポート 第26回 月刊ピンドラーマ2022年5月号
#せきらら ☆難民レポート
#月刊ピンドラーマ 2022年5月号 HPはこちら
#ピンドラーマ編集部 企画
#おおうらともこ 文と写真
今年3月、ポルトガルのリスボンで開催されたミス・コンテスト「第6回MISS CPLP(ポルトガル語諸国共同体)」で、ブラジル人ジャイアーネ・サントス・ダ・クルスさん(20、バイーア出身)が優勝した。同コンテストはCPLP出身者が美を競うイベントで、今回はブラジル、アンゴラ、カーボベルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、ポルトガル、サントメ・プリンシペ出身の12人のファイナリストの中からジャイアーネさんが勝利を収め、後日、パリのルーブル美術館でのファッションショーにも参加した。
彼女を養成したモデル事務所が、サンパウロにあるナミビ・プロ・モデルス(Namib Pro Models)で、その指導に当たっているのがアンゴラ出身のマイコン・クリントン・シルシャさん(32)である。
◆路上生活を経て、モデル事務所創設へ
ルアンダ出身のマイコンさんは、2008年8月、18歳の時にサンパウロに単身で到着した。父親がアンゴラの政治家の自宅で土木建設の仕事をしていた時、奴隷制のような待遇のひどさに耐えられず、労働環境の改善を訴えたところ政治家の怒りを買った。家族全員が脅迫されて自宅から出られなくなり、やむを得ず、父親は9人きょうだいのうち、長男のマイコンさんと2人の弟を海外に出すことを決意。出国先を選ぶことはできず、縁のあったブラジル人によって、マイコンさんはブラジルに、弟2人はそれぞれドイツとイギリスに渡航した。
ブラジルに旅行ビザで入国したマイコンさんは、最初2か月間、サンパウロで知り合ったアンゴラ人の家で暮らしたが、父親から手渡された資金もすぐに底をつき、仲間だと思ったアンゴラ人からは家を追い出されることになった。アンゴラでもポルトガル語を使用していたため、言葉こそ困ることはなかったが、サンパウロの土地勘はなく、知人や友人もおらず、路頭に迷った末、行きついたのがセー広場だった。そこで約1年3か月、見ず知らずの人々とともに路上生活を送った。
「寒さと空腹には苦しみました。それでも、警察や行政から食べ物を恵まれ、生き延びることができました。アンゴラからの習慣で、あまりアンゴラ人同士は助け合わず、助けてくれたのはいつもブラジル人でした」
当時、セー広場のすぐ横に難民受け入れセンターのカリタスがあったにもかかわらず、誰もその情報を教えてくれる人はいなかった。通りの人に声をかけても多くの人は素通りしていった。ブラジルに来て3か月でビザの有効期限は切れ、不法滞在となった。
路上生活中は、サンパウロを知るために各所を歩き回り、頻繁にマリオ・デ・アンドラーデ図書館に通い、専門分野のファッションや自然に関する本を読みあさった。7歳からモデル業に携わってきたプロ意識やファッションへの情熱は変わらず、セー広場でも毎日筋トレに励み続けた。
やがて、マイコンさんが他の路上生活者とは異なると感じた一人の女性から声をかけられ、彼女とその主人が暮らす家で半年間を過ごすことになった。その間、レストランの仕事を得て、一か月300レアルの家賃の住居を見つけ、サンパウロでの自活への第一歩を踏み出した。
◆南米初のアフリカ出身者が経営するモデル事務所
アンゴラでは母親の勧めで7歳からモデルとして活躍してきたマイコンさん。その能力をさらに伸ばすため、父親の勧めで15歳の時にフランスへ渡航し、一年間モデル学校に通った。アンゴラ時代からフランス語も習い、言葉には困らず、ロシア人やイタリア人たちのモデルと寝食を共にし、最初、黒人が一人で偏見を持たれたが、組織のリーダーの指導で次第に人種を超えて打ち解け合った。7か月後にはさらに10人のアフリカからのモデルが到着し、心強くなった。
「フランスのことは今も大好きで、多くのことを学べました。しかし、当時は母親が恋しくて1年で帰国してしまいました」
と振り返る。
ブラジル人夫妻の家を出ると同時に、モデルの仕事もスタートさせた。テレビ局の俳優のアシスタントやTVグローボのドラマにも出演するなど、活動範囲を広げていった。仕事の契約を結ぶ際、不法滞在で書類手続きができないことが判明し、難民申請することで合法的に生活できることを知った。ブラジルに到着して2年後、ようやく難民申請を行い、3年後に認定され、今年9月にはブラジルへの帰化が認められる。
サンパウロでモデルの仕事を始めてから、公園や施設を利用してモデル学校の活動を続けてきたが、マイコンさんの人柄と地道な努力が認められ、昨年、正式にナミビ・プロ・モデルスの事務所をShoppingDに構えることができた。
サンパウロには多くのモデル事務所があるが、アフリカ出身者が経営するモデル事務所は南米でも初となる。現在の生徒数は約250人、うち37人がアフリカ各国、ベネズエラ、コロンビア、ボリビアからの難民や移民で、経済的に大変な家庭の子どもたちには奨学金制度が設けられている。毎週金、土、日の2時間半、モデルを目指す3歳から60代の人々がレッスンに励み、マイコンさんは生徒への指導と教師の育成を一手に担う。美の競争に勝つことよりも、モデルとなる勉強を通じて自尊心を高めるのがモットーである。
「今、日系人が1人、韓国人2人が事務所に所属しています。モデルの夢は、パリ、ミラノ、ニューヨーク、東京に行くことです。もっとアジア人モデルも増えてほしいです」
◆子供たちが夢を持てる社会に
マイコンさんが生まれた時のアンゴラは内戦(1975-2002)下にあり、多くの人々がまともな食事もできない日々が普通だった。その状況は今も改善されていない。マイコンさんの学校に銃を持った人々が押しかけ、子どもたちを兵士として連れ去ろうとして、逃げる子どもたちに発砲したこともある。その際、マイコンさんの脚をかすった銃弾の跡が今も残る。
「セー広場で暮らしていた時、両親に見捨てられた子供たちが路上を徘徊している姿をよく見かけました。子供たちは将来の社会を担う宝です。全ての子どもたちが希望や夢を持てる扉を開くNGOを設立したいです」
と目標を語る。
これまで、ブラジルをはじめアンゴラ、コロンビア、ポルトガル、フランスでのファッションショーにモデルを送り出してきた。パンデミックの間はファッションショーも中止されていたが、様々なイベントが再開され始めた今、ミスコン優勝のニュースで注目を集めたナミビ・プロ・モデルスに熱い視線が注がれている。
企画:ピンドラーマ編集部
取材・文:おおうらともこ
取材協力:Abdulbaset Jarour、Namib Pro Models
月刊ピンドラーマ2022年5月号
(写真をクリック)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?