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ジャグァレー クラッキ列伝 第160回   下薗昌記 月刊ピンドラーマ2023年3月号

Jaguaré

近年、欧州の舞台でも活躍するGKを輩出するブラジルのサッカー界に、特別なキャリアを過ごした守護神がいる。25年の現役生活で奪ったゴールは実に世界最多の131得点。サンパウロFCの英雄、ロジェーリオ・セニはかつて「ゴレイロ・アルチリェイロ(GKストライカー)」と称されたが、どんな分野にも先達はいるものである……。

セニが初ゴールを決めたのは1997年のことであるが、1938年にフランスの地で世界初となるGKとして得点を決めた名手がいる。

男の名はジャグァレー・ベゼーラ・デ・ヴァスコンセロス。リオデジャネイロ(以下リオ)の名門、ヴァスコ・ダ・ガマで一時代を築いたGKである。

リオ州選手権が創設される一年前の1905年、リオに生を受けたジャグァレーは、サントスにあるアトレチコ・サンチスタの下部組織に在籍していたが、当時はまだプロ化されていない時代。やがてリオの港で港湾労働者として働きながらサッカーをしていたジャグァレーが草サッカーに興じていたある日のことだ。

当時ヴァスコ・ダ・ガマでプレーしていたスペイン人選手に見出され、ヴァスコ・ダ・ガマでプレーすることになる。

当時はポルトガル語のゴレイロではなく、サッカー用語も英語が用いられており、「ゴールキーパー」と呼ばれていたがジャグァレーは、「駄々っ子」の愛称で知られた通り、大胆かつ不遜なスタイルで知られ、相手のシュートをわざわざ片手で止めたり、FWを挑発したりとしたい放題。シュートをわざとオーバーヘッド気味のキックでクリアしたことさえあったという。

もっともその実力は本物だ。1929年のリオ州選手権で優勝を飾った褒美としてチームはポルトガルで1シーズンを過ごしたがジャグァレーに目をつけたのがスペインのバルセロナ。2019年にブラジル人GKのネットがバルセロナ入りした際、ジャグァレーの存在に脚光が当たったことがあった。

バルセロナでの短いキャリアを終え、帰国後コリンチャンスでプレーした風変わりなGKが再び1936年から欧州に活躍の舞台を移すが、フランスのオリンピック・マルセイユに移籍後、ジャグァレーはサッカー史にその名を刻みこむ。

試合中に得点を決めた最初のGKとしてーー。

1938年のフランスカップの決勝でメスと対戦したオリンピック・マルセイユ。1対1の拮抗した展開で後半28分に得たPKにキッカーとして志願したジャグァレーは見事決勝点をゲットし、優勝に貢献した。

当時のフランス大統領までもがジャグァレーを称えるため挨拶に来たという。

ブラジル代表でも3試合に出場した経歴を持つ名手だったがオリンピック・マルセイユ時代に手にした栄光がキャリアのピークだった。

第二次世界大戦の戦禍を恐れて、1940年にブラジルに帰国。リオのサン・クリストバンに移籍したジャグァレーは欧州のGKでは一般的だった手袋をつけてプレー。ブラジル国内で最初に手袋を用いたGKとしてもその名を残すが、シュートを守ることに長けた「駄々っ子」は、自身が稼いだ財産を守る術を知らなかった。

無一文に近い状態で、やがてかつての港湾労働者に戻ったジャグァレーがかつての栄光の時代を語っても、誰も彼が名GKだったことを信じず、一笑に付したという。

サッカー界から姿を消したジャグァレーだったが、その名を人々が再び耳にしたのは悲劇的な死によるものだった。

1940年、新聞の片隅でかつてヴァスコ・ダ・ガマのGKだった男が警察官に、トラブルの末に撲殺されたことが報じられた。

先駆者の死としては寂しすぎる結末ではあるが、世界で最初に自らのシュートでゴールネットを揺さぶった事実がくすむことはない。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2023年3月号
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