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巡礼者の杖 上

ー求道者のためにー

誰に私はこれを語るのか。神よ汝に語るのではない。
汝の御前で我が同胞に、人類に語るのである。
私の書を繙く者が如何に少なくとも語ろう。
私を含む皆が如何に「深き淵より汝を呼び求む」詩篇130・1
べきかを熟慮せんが為に。

            アウグスチヌス

はじめに


 前著『神に至る三つの道』に於いて私は神の実在を証明し、人が神に至る道を具体的に示した。それは地図のようなもので、読者が示された道を真摯に歩むのであれば誰でも神に至ることが出来ると言うことは前著で約束した通りである。
 しかし地図は正確でも、それで道中の安全が確保されると言う事にはならない。急な嵐に先へ進めなくなる。追い剥ぎに会って身包み剥がされる。野犬に襲われる。亡霊に付き纏われ、悪魔に挑まれる事もあるかもしれない。正しく道を歩んでいる上でのそうした困難、疑念、迷い、葛藤、失望はそれ自体、当人の気付きや成長に必要だったりするので忌避すべきものでもないが、時に躓きの石となる。
 具体的には以下のような事柄が躓きの石となり得る。

 ・神に至る道について信頼できる人物、書籍、情報が殆どないこと。

 ・精神の成長と変化の過程で生ずる様々な葛藤。

 ・成長した精神と外界との不和、生きづらさ。

 ・神に対する理解について。

 ・神との関係性について。

 前著『神に至る三つの道』に於いて私は歴史的、客観的事実に立脚し単純明快な論理に従って進むべき道を示したのみで、私自身の事柄や私が歩んできた道については殆ど語らなかった。その理由は前著で述べた「道はその人自身の足で歩まねばならない」と言う言葉に尽きる。私は前著を一般に広く公開することで水先案内人の役目を全うした形だ。

 しかし神に至る道は人の道と異なる。

 人の道で倒れたならば、通りすがりの人が助けてくれるだろうが神に至る道を行く人はそうあるものではない。自力で立ち上がる知力と精神力がなければ、痛みに挫けてその場で歩みを止やめてしまう事もあり得る。数少ない「神に招かれた人」がそのような事で道を諦めるとしたら、如何にも残念な事である。

 それで、私は私自身とある一人の求道者について語ろうと思った。彼と私とは趣味を同じくする友人ではなかったし、日頃から親しみを持って接するような間柄でもなかったが、どういう訳か顔を合わせれば、お互い遠慮なくものが言える関係性ではあった。当然それぞれの経験、立場、考え方の違いから話が噛み合わなかったり、見解の相違や意見の衝突もあったが、それでも、否、それ故に私達の対話には真実の実りがあった。特に宗教的、哲学的な事柄についてかなり突っ込んだ意見の交流を持てたことは私にとって大きな利益だった。私の思想形成に彼の存在は欠かせなかったし、彼の存在なくして『神に至る三つの道』の完成もなかった。
 だから私は彼と交わした対話の中で特に有益と思われる事柄について、できる限り有りのままここに記そうと思う。そうする事で読者は前著の内容をより深く理解できるだけでなく、実際に神の道を歩むとはどう言う事なのかを、事実として知ることが出来る。真摯な求道者にとって前著が神に至る道筋を示した地図だとしたら、本著は杖のようなものだろう。

 ただこの杖は土産物屋に置いてあるような、誰もが手に取れるよう綺麗に整えられた商品ではない。この古ぼけて手垢まみれの汚い棒切れは、その辺に転がっていた木の枝を手刀で削っただけの物に過ぎないが、一般には秘められるべき霊智や神智を宿している。故に本来は他人の手に渡るべき物ではない。誰にも知られず、山に捨てられ土に帰るか、炉にくべられて灰になるべき代物である。間違って安易な気持ちや興味本位で手にする者がいれば、光に照らされず、杖に染み込んだ苦悩の血と深淵の闇に精神を蝕まれるだろう。しかし真摯な求道者が覚悟を持ってこの杖を求め、頼るのであれば、或いはその身を支えるだけでなく、懐疑の森にあって羅針盤となり、絶望の谷に伏して灯明となり、深淵に望んではその闇を払う光の剣となるだろう。


序章

素朴な疑問 根源的な問い


 小さな子供は小さな哲学者であると言われる。誰しも幼少期には家に一人残されて見た静謐な午後の日差しに、あるいは夜中、布団に潜り込んで覗いた暗闇の中に、今自分がここに在ると言う事と表裏一体の虚無感に慄然とした事があるのではないだろうか。恐らく幼児期において人がそうした虚無感に遭遇するのは、人生という一定の時間的尺度に於いて彼が老年期と同様に死に近い存在だからではないだろうか。だから彼に相応の思考力と言葉が有るならば素朴で根源的な問いを持つ筈である。

 ・人は死んだらどうなるか。

 ・人生に意味はあるのか。

 ・人生に意味が有るとすればそれは何か。

 ・人生に意味がないとすればなぜ生きるのか。

 ・自分はどうしてこんなにもひとりぼっちなのか。

 いずれの問いも幼児が思いつくほど単純至極だが、これらの疑問に明解な答えを出すのは容易ではない。その事は今日まで歴史上の名だたる偉人賢人がこれらの問いに挑戦し、それぞれ回答を残してきて未だ万人が納得するような共通見解は得られていない事を見ても明らかである。当然、未発達な幼児の脳に抱え切れる問題でない。夜な夜な死の恐怖に怯え、悪夢にうなされる事はあっても、昼間には周囲を目まぐるしく回転する人、物、事に心を奪われる。彼の人生劇場は既に始まっていて彼は彼の役柄を演じなければならず、解決不能な問題に気を使っていられないのだ。
 彼らはもう「なぜ」と問わない。「どうしたら」考える。どうしたら格好がつくか。どうしたら褒められるか。どうしたらあの子と仲良くなれるか。どうしたら成績が上がるか。どうしたら希望の職に就けるか。どうしたら家が買えるか。どうしたら、どうしたらと意識は外界にばかり向けられて滅多に自分の内側に向かって「なぜ」とは問わなくなる。要するに嘗ては小さな哲学者も成長するに及んで何に成るにしても、普通のただの人に成るのだ。無論。素朴で根源的な問いは解決されぬまま、どこか遠くに忘れ去られる。

 しかし忘れたところで素朴で根源的な問いが消えて無くなる訳ではない。それは意識しなくとも影のように付き纏う。そして人生で大きな挫折や喪失を経験したり、死を意識するような場合に影はその人の背後から前へ回って自らその深淵な闇を覗かせるのだ。

 人は暗闇を恐れる。

 ネズミが猫を見て逃げ出すように、彼は単純な恐怖心から初めて素朴な疑問、根源的な問いに対する答えを真剣に探し出す。しかしネットで検索したり本を読んだり、或いはお寺や教会へ行って有難いお話を聞いても、答えは見つからない。と言うか人はそれぞれ答え『のようなもの』を提供してくれるのだけれども、その『のようなもの』を持ってして自分自身で「なるほど、その通り」と納得できないのである。

 そして途方に暮れて何が何やら分からぬまま、恐れていた影が、暗闇が、虚無が、死が彼を飲み込む。

 彼はどこかで間違えたのであろうか。彼は彼の人生劇場に於いてその時々の役柄を忠実に演じてきたに過ぎない。親に対して子、教師に対して生徒、後輩に対して先輩、会社に入ってサラリーマンとして、結婚しては夫としてその役目を、人に対しても社会に対してもその責任を立派に果たして来た。間違いなど有ろう筈も無い。
 しかし彼には彼が演じてきた小さな舞台の上の事しか分からない。舞台上の出来事はスポットライトに皎々と照らされてよく見えるが、観客席は暗くて見えない。観客がいるのかいないのか、舞台袖では誰が待っているのか、書割は誰が書いているのか、舞台裏の諸々の装置は誰が作って誰が動かしているのか、演目の脚本家や舞台監督はいるのか、劇場の外はどうなっているのか、そもそもこの劇場はなぜ存在するのか、まるで分からない。

 多くの人は人生の道のりを自分の自由な意思と選択で歩んできたと、錯覚している。自己責任論の半分はそうした誤った事実認識の産物だ。実際はその人の生まれついた環境、備わった能力や性格といった最初の諸条件にその後の選択は予め決まっている。何故なら人は生まれた時から何かしらの社会に属しており、そこから常に役柄を強力に要請されるからだ。その役を拒絶することは並大抵の精神力では無理だし、そうする事は社会からの離脱、生存の不可能性を意味する。だから多くの人はその生涯に於いて殆ど無意識に社会から与えられた役を受け入れる。またそうして出来上がった人格を自分と思い。条件や状況に強いられた選択を自由と思い。演じてきたこれまでを人生だと思う。

 しかし舞台上の俳優がいくら感情を昂らせて迫真の演技を見せても、誰もそれを真実だとも自由だとも思わない。役者はただ与えられた役柄を演じ、与えられたセリフを言うだけだからだ。同様に人生劇場に於いて与えられた役を演じて来ただけの人々、要するに自分という存在を他者との相対関係や身体的条件に置いて自己の内面に奥深くに立脚していない人に、本当の意味での真実や自由は無い。在るのはどこまで行っても個人的な『のようなもの』である。

 一方で本来の自己と意思により自由な人生を歩む人も僅かだがいる。彼らはいつかの時点で社会から要請される役柄が自身の個性や性質とあまりに見合っていない為に自ら人生劇場を降りたか、周囲から疎外された人々である。例えば高い知性と感受性とをその性質に持ちながら全く文化的でもなく知的でもない家庭に生まれた子供とか。人間的な感情をほとんど持ち合わせていないのにも拘らず高い倫理観を要求される宗教的なコミュニティーに属している人物とかがそうである。
 彼らは良くも悪くも自身の性質や個性が周囲と全く不釣り合いなために、日々そんな自分という存在を自ら意識せざるを得ない。周囲の人々と和合できない彼らの人生は結局のところ孤独で過酷なものになるが、社会から要請される役柄を演じていないため、彼らの言動は彼らの自己を直接的に反映している。そしてそれは善にしろ悪にしろその人の本質を表出するのである。

 ここに『ある求道者』として登場する彼も、そうした数少ない自由人の一人だった。

 私と彼との出会いがいつどのようなものだったかは覚えていない。ずっと昔からお互い知っていたような気もするし。最近お互いを認めたような気もする。彼はいつも無帽蓬髪。酷く痩せこけていて、長い顔は彫刻刀で荒く削ったように険しい。二重の大きな瞳は彼の唯一の美点であるが、少し猫背で、普通に立って前を見ていても相手を睨み付けるような三白眼になる。滅多に笑わず寡黙。無礼ではないが、誰にも媚びない態度が不遜と思われないでもない。当然、孤独。
 彼の事を思うと私の心には浜辺に生えている一本の枯れ松が浮かぶ。古い木のようだが大きくはない。細い松の枝も幹も常に沖からの強風にさらされて陸の方へ曲がっている。鋭い針のような葉はまばら。黒い枝はところどころ折れてしまっていて、幾つかの裂け目は幹にまで達している。或いは幹の奥まで朽ちているのかも知れないが、それでもこの松が立っていられるのは傷を白く乾燥させる潮風の所為だろうか。

 そんな人格に於いても風貌に於いても凡そ人好きのしない彼と私とが最初に心を通わせたのはある春の、暑くも寒くもない霞がかった夜の事だった。まだお互いをよく知らず、また知ろうともしない私達は静まり返った住宅街の道をただ黙って歩いていたのである。ところがちょうど公園や神社なんかがある街灯の少ない暗い道に来たところで、彼は突然、背後からこんな事を言った。

「君、知ってるか。夜ってのは実のところ、地球の影なんだぜ」

 私は思わずその場で立ち止まり、振り返った。
 そうして私は彼の目を見て表情を見て、彼の放った言葉の意味を探ろうとした。しかしそれは叶わなかった。彼は奥の街灯を背にして夜の暗闇と全く同化していたからだ。
 私はその人の形をした影に向かって「うん」とか何とか曖昧な返事をするのが精一杯だった。
 そしてまた黙って歩き出したのである。

 地球の影を踏みながら。

 夜。と言う名の地球の影は、我々が日常で接することのできるモノの中で最大である。これに比べれば都会に聳え立つビルの影も、砂漠に屹立するピラミッドの影も、天蓋に迫るヒマラヤの山影もあまりに小さい。そして人の体感スケールを遥かに超えたその大きさ故に、夜が地球の影だという当たり前の事実を我々は普段、全く意識しないのである。
 しかしその地球の影ですら、一穣個もの星々を蔵する宇宙の暗闇に比べれば無に等しい。

 あの夜、言葉のキャッチボールは一度だけ、彼の一方通行で終わった。彼は地球を球にして私に投げたが、私はそれを取り損ねた。彼の人格からして軽蔑こそしなかっただろうが、恐らく私に対して幾らかの失望はした筈だ。それでも私達の関係がその後も続いたのは求道者として、それぞれお互いの歩む道に興味があったからだろう。自由な意志で歩んだ道のりとそこから見える景色はそれぞれに違っていても、必ず汲むべき真実があるからだ。私達は会う度に人間について、その生と死について、宇宙や神について、要するに素朴で根源的な問いについて多くを語り合ったのである。


第一章

人間とは何か

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パンドラの箱

 パンドラの箱として有名なギリシャ神話がある。
 
 天界から火を盗んだ男プロメテウスの弟エピメテウスと人類最初の女パンドラの婚礼に際し、神ゼウスは彼女に「決して開けてはならぬ」と言付けて綺麗な箱を賜る。神から嫁入り道具をもらって、パンドラは素直に大喜び。そして地上に降りてエピメテウスと結婚してからも、パンドラの小さな胸は夫婦で愛し合う喜びと家庭の温かさに満たされ、幸せ一杯に暮らしていた。
 しかし何の不満もない日常は、それが当たり前となると次第に有り難みもなくなる。朝に夫が仕事へ出かけるのを見送り、掃除や洗濯を済ませ、軽く昼食を取ると、夕方に夫が帰ってくるまで魔の空白時間ができる。
 現代の主婦であれば愛憎渦巻く昼ドラやネットフリックスを見たり、スマホ片手にSNSに興ずるところだが、神話時代のギリシャにそんなものはない。軒先にやってきた小鳥たちとの無邪気なお喋りも、シカやリス、キツネやタヌキなどを呼び集めてその前で歌を披露するのも、それはそれで楽しいけれど、何か物足りない。
「暇だわ、」
 パンドラはテーブルに頬杖をつき呟いた。
 そして美の女神アフロディーテから頂いた太陽のように輝く金の巻き髪を指先でクルクルと弄びながらこんな事を考えた。
「神様に頼んで一緒にお茶したり、お話ししたりできる私と同じような女の子を二、三人作ってもらえないかしら」
 とここで漸くパンドラはゼウスから賜ったあの「決して開けてはならぬ」箱の存在を思い出すのである。まあ、思い出すと言っても箱はいつも居間の飾り棚の上に鎮座していて目につくところに在ったのだが。
 パンドラは立ち上がると、夫のエピメテウスが日曜大工で作った粗雑な飾り棚の上からそっと箱を下ろし、埃を丁寧に布で拭き取った。
 箱は白磁で出来ている。艶やかな乳白色の肌の上に金泥と螺鈿で鮮やかな装飾がなされている。造形と線と色彩とが織りなす華麗にして繊細、風雅にして厳かな調和は正に神の御業。到底人間で為し得ぬ美の極致。
 パンドラは見惚れて思わず恍惚の溜め息をつく。そして指先で優しく箱の表面を撫でると、今更ながら神の「決して開けてはならぬ」と言う言付けが奇妙に思われた。
「なぜ神様はあんな事を言ったのかしら」
 箱は通常、何かを出し入れする為のものだ。それには当然、蓋を開けたり閉じたりしなければならない。しかし決して開けるなと神ゼウスは言った。純粋でウブなパンドラは最初、あまりに綺麗なこの箱を誤って割ったりしないよう、容器として使うのではなく、飾りとして置いておくようにとの意味に神の言葉を解釈した。それに付いて夫エピメテウスも同意見だった。純朴で呑気な彼も箱を目にしてこう言った。
「確かに、こりゃあ何かを入れるには小さ過ぎるな。獣の皮を剥ぐナイフも入らないと思うよ。でも折角貰った物だし、ピカピカしてて綺麗だから飾っておこうよ。そら、あそこの上あたりに棚を作ってさ」
 しかし、とパンドラは思う。神が飾り物としてこの箱を賜ったなら、他に言いようがあったのではないか「割れ物だから、何も入れず大事に飾っておきなさい」とか何とか。
「ひょっとして既にこの中には空気や日に当たってはいけないような、何か大事なモノでも入っているのかしら」
 パンドラはそっと箱を持ち上げるとそれを右に左に傾けたり、軽く振ったりしてみた。しかし何も音はしないし、重みからしても何か入っているようには思われない。
 何も入っていないのなら、なぜ「決して開けてはならぬ」のか。そもそも開けてはいけない箱に封も何もせず、いつでも開けられる状態で渡したのは何故か。
「なぜ?」
 何故と幾ら考えても、無邪気なパンドラには神の意図するところはまるで分からない。分からなければいっそ箱を開けて中身を確かめたくなる。しかしそれは神の命に背くことになる。神の指示は絶対だ。人として背く訳にはいかない。パンドラは立ち上がって箱を飾り棚の上に戻した。
 そして編み物をしたり、お茶を入れたり、窓の外に向かって歌を歌ったりして箱については考えないようにした。しかし考えないようにとすればするほど気になる、箱。
「開けたい。でも開けてはいけない」
 パンドラは箱を飾り棚から下ろしてテーブルの上に置いたり、また元の場所に戻したりを何度も繰り返した。そしてとうとう決心した。
「開けよう。神様が結婚のお祝いにくれた箱だもの。中に何が入っていようと悪いものではないはず」
 パンドラは自分にそう言い聞かせ蓋の取手を摘んだが、これまで感じた事のない胸の高鳴りで手が震える。震えながらもそっと、手前に2、3ミリ蓋を持ち上げて、直ぐに閉じた。カチッと箱が音を立てた以外何も起こらない。ほっと溜め息をつくと、胸の底の方から湧き上がる奇妙な高揚感にパンドラの口角が自然と上がる。
 パンドラは前屈みになると、獲物を狙う猫のような鋭い目でじっと箱の口を見詰めるながら、またそっと蓋を開け、直ぐに閉じた。
 カチン!
 静かな部屋に白磁の澄んだ音色だけが響く。何も起こらない。先程より大きく、5ミリほど口を開けて箱の中も幾らか見えたが、何か入っているようには見えなかった。
「開けちゃった」
 ここへ来て極度の緊張と興奮は彼女の中でゾクゾクとした快感になる。「決して開けてはならぬ」箱は既に開けられた。後は中身を確認するだけである。パンドラは箱を手元に引き寄せ、背筋を伸ばすと一度大きく息をして蓋を開けた。

 小さな箱の中には、何もなかった。

 覗いた箱の底には白磁のツヤツヤとした肌が冷たく光るばかりである。蓋の内側も同様だった。
「なあんだ、」
 安堵と虚脱、そして少しの失望。パンドラはふふふと笑った。そして神の魂胆を彼女なりに悟った。
「私をからかいたかったのね」
 全てを予期した上での神のイタズラ、そうパンドラは解釈した。
 窓の外を見ると日は傾きかけ、まだ取り入れてない洗濯物が緩やかな風にひらめいている。
「いけない、もう少しであの人も帰ってくると言うのに」
 パンドラは箱をテーブルに置いたまま急いで外へ出た。
 と、急に辺りが暗くなり出した。
 空が曇ったのではない。山の端に掛かり出した太陽が欠けて光を失って行くのである。

 日蝕。

 それは太陽が月の影に重なった事による単なる天体現象であるが、太陽が欠ける様を初めて見たパンドラにはこの世の終わりとも思える恐ろしい光景だった。そして天から雷鳴の如きゼウスの声が響く。
「パンドラ。ついにお前は開けてはならぬ箱を開けてしまったな。私はあの中に全ての災悪を入れておいたのだ。今後、お前達とその子孫は末代に至るまであらゆる災いと悪とに苦しむだろう。お前一人の、神への不従順とその罪故に」
 パンドラはあまりの事に気絶しそうになり、物干しの棒と一緒にその場で倒れ込んでしまった。そこへ最愛の人が駆けてくる。
「パンドラ。どうした。何があった」
 エピメテウスがパンドラを抱き起こすが早いかパンドラはエピメテウスの首っ玉にわあっと泣きついた。
「ごめんなさい!貴方、あの箱を開けてしまったの」
「うん、ゼウスの声は僕にも聞こえたよ。奴は兄貴が火を盗んだ事をずっと恨んでたんだな。それで祝福と言って悪いものを箱に忍ばせて君に渡したんだ。なんて陰険で卑怯な親父だ!」
「違うのよ。箱の中には何も入っていなかったの!エピメテウス。信じて!箱には何も入っていなかったの。それなのに開けてしまったの!」
 泣きじゃくるパンドラをエピメテウスはその太い腕でギュッと抱きしめた。
「信じるさ。信じるとも。妻のことを信じれない男がこの世のどこにいるんだい?箱には何も入っていなかった。だから何も悪い事なんて起きないさ」
 パンドラは涙で一杯の青い目でエピメテウスの黒い瞳を見つめ言った。
「太陽は光を失ったわ」
 日蝕の太陽はそのまま山陰に沈み、辺りは夜のような暗がりに沈む。エピメテウスは優しくパンドラに微笑みかけ言った。
「大丈夫。きっと明日の朝になればまた太陽は光を取り戻して輝くよ」
 エピメテウスの言葉は確信に満ちていたが無論、単純素朴な彼がそう言えたのは天文学の知識や経験からではなかった。ただエピメテウスの胸には熱く正義の炎が燃えていて、その熱情は彼にとって神ゼウスの言葉や力よりも遥かに確かなものだったのである。
「そうね、」
 パンドラはエピメテウスの全てに納得した。
 そして二人は草の上に散った洗濯物を拾い集めて家に入ると、いつものように温かな家庭の火をを灯したのである。

             ーーーーーーーー

 このしてはいけない事をして取り返しの付かない大変な事になる、と言うお話の構図は、創世記に於けるアダムとイブの楽園追放や、乙姫から玉手箱をもらった浦島太郎の物語と共通で、いずれも人間の貪欲な知的好奇心と法を守れない人間の弱さを戒めた寓話なのだが、パンドラの箱に於ける寓意は全ての悪の原因を人間に置いている点で意義深い。実際、地震、津波、火山の噴火、洪水、疫病などの天災を除くあらゆる災難、つまり戦争、差別、搾取、貧困、犯罪、環境破壊などの原因は我々人間が自ら作りだしている不幸だからだ。

 しかし多くの人はこの事実を直視しない。

 故に、この世界を良くしようとする人々の努力は専ら新たな法律の策定、合意の締結、主義や理想の提唱、システムの構築と言った外界への働きに向けられ、人間の内側へは向けられない。そして法や合意は破られ、理想や主義はねじ曲げられ、システムは破綻し、いつまで経ってもこの地球上に平和や正義は実現しないのである。

 無論、平和や正義と言った普遍的価値観を希求する人類のこれ迄の努力や挑戦の歴史にまるで意味がなかった訳ではない。ここ数十年を見ても白人が黒人を家畜以下のような扱いをしていた頃より現代の方が、たとえ表面上であっても遥かに進歩している。しかし問題は我々人類の意識の進歩より科学技術の進歩の方が圧倒的に早い事だ。

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 第二次世界大戦末期、アメリカにより日本の広島と長崎に二つの方式の異なる原子爆弾が立て続けに投下された。その爆発は凄まじく正確な被害の数は分からないが、二つの都市を合わせて少なくとも約30万もの人命が奪われたとされている。この原子爆弾の開発と投下に関わったアメリカの物理学者ハロルド・アグニュー氏が2005年に来日した際、原爆投下による被害についてこう語った。
「空襲で焼けた東京の写真を見た事があるけど、それと同じことだよ。東京の方が時間が掛かっただけ」
 また彼は原爆資料館の展示を見ながらこうも言っている。
「毎日、毎日空襲するよりこっちの方が簡単なんだ。一発で済むから」

 2022年2月24日ロシア軍がウクライナに侵攻。当初圧倒的な軍事力でロシアが早期にウクライナを屈服させるかと思われたが、4月現在、ウクライナは多大な損害を被りつつも国際的な支援と支持を受けて善戦。一方でロシアは経済制裁に苦しみつつ、前線の物資も不足がちであるが、国内外に盛大なプロパガンダを発してきた手前、引くにも引けず、戦況は膠着状態にある。このまま戦争の出口、落とし所が見えない状況が続けば最悪、第三次世界大戦、全面核戦争に発展するのではないかと危惧する声もある。

 しかしこれまで意識しなかっただけで全面核戦争の危機は常に我々と共にあったのである。現在、世界中の海に核弾頭を搭載したアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インドの原子力潜水艦が常時20隻以上沈んでいる。もし、その中で一つでも何か誤りがあって核ミサイルが発射されるような事があったらどうか。
 国籍不明の原子力潜水艦から核攻撃があった場合、核保有国が自制的に宣戦布告を待ったり、どの国からの攻撃かを調査すると思うのはあまりに脳天気な発想である。どこの国から攻撃されたか分からないという事は、偶発的な事故か先制攻撃か分からないという事であり、それは次の瞬間にも自国が第二、第三の核攻撃を受ける可能性があるという事だ。だから核保有国は自国が核攻撃を受けた場合、相手が誰であれ、報復するる手段と機会のある内に反撃する。相手が誰か分からない場合には想定される全ての国に対して、即座に徹底的な報復攻撃がなされる。具体的に言えば、ロシアに核ミサイルが落ちた場合、NATO諸国及びアメリカの同盟国として軍事的な結び付きの強い日本や韓国にも核の雨が降るだろう。多くの国々は全くの無実により滅ぶが、国も人も灰になって仕舞えば報復や非難の心配をする必要がない。

 1985年頃、世界の核兵器の総量は広島型原爆に換算して147万発であり、これは全人類を35回以上絶滅させる量だったとされる。核保有国が抑止や正当防衛の範疇を超えて核兵器を保有している現状は、上述のような想定を裏付けるものである。

 漫画『ドラえもん』の中で、のび太はいつもドラえもんの道具を正しく使えない。未来の便利グッツはあまりに進んでいるのに対して、小学生ののび太はまだ精神が未熟だからだ。
 2005年に来日したハロルド・アグニュー氏であるが、原爆資料館を閲覧後、二人の被爆者と対談した。被爆者は如何に原子爆弾が非人道的な兵器であるかを語り、それに関わった人物としてハロルド・アグニュー氏に対して謝罪を求めたが、彼は拒絶した。

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「リメンバー・パールハーバー。私は当時ピッチャーで、キャッチャーはハワード・ニクソンという男だった。彼は徴兵され日本で戦死した」

 要するに日本人は真珠湾を不意打ちして来たような悪い連中なんだから死んで当然だ、と言うのである。

 現代でも第二次世界大戦を振り返ってこのように主張するアメリカ人は実に多い。アメリカの日本への攻撃は正当防衛であり、原子爆弾の使用は戦争を終結させるために必要であったと言うのだが、無論、上述のような主張は道義の面からも事実の面からも完全に間違っている。
 正当防衛とは殴られたから殴り返したという場合を言い。殴られたから殺してやったという場合は過剰防衛であり、犯罪である。世界的に誤解されているようだが、日本軍の真珠湾攻撃は軍事施設を対象としたもので一般人を標的とした無差別爆撃ではなかった。不幸にして68人の民間人も犠牲となったが、それを以てアメリカが日本の民間人に対して行った何十万人もの大量虐殺を正当化することは出来ない。また、太平洋戦争末期の日本は完全に制空権を失った状態で主要都市の殆どが焦土と化し、アメリカの戦闘機が当時の人の言葉を借りれば「石を投げれば当たる」ほどの低空飛行で民間人を銃撃するなど、既に戦況は決していた。つまりアメリカが立て続けに二度の原爆投下を行ったのは、戦況打開を掛けた止むを得ぬ一手と言うよりか、日本が降伏する前に何とか実戦で核爆弾を使用したい『何らかの意図』があったと見るのが事実に即している。

 まあ、そうは言っても知識と思慮に欠けるアメリカの一般人がその短絡的な思考と感情で自国の戦争犯罪を正当化したとしても無理はない。ただハロルド・アグニュー氏はマンハッタン計画に関わったほどの優秀な物理学者である。普通人よりずっと優れた頭脳を持っていたであろう彼が、平均的なアメリカ人と同等の知性と精神性しか持てなかった事実に、私は暗然とするのである。

 現状、我々人類は自ら開発した原子力により絶滅の危機にあるのだから、『ドラえもん』に於けるのび太と未来の便利グッツとの関係のように、原子力は現在の人類には過ぎた技術だったと言わざるを得ない。今後も科学技術の発展が人類の精神的進歩を遥かに超えて進むのであれば、遅かれ早かれ自滅の運命は避けられない。

 しかしこのような危機感を持っている人は殆どいない。

 問題の原因は明白だ。この世界に不幸が満ちているのはパンドラが災悪を封じた箱を開けてしまったからではない。戦争、差別、貧困、搾取、犯罪、環境破壊、あらゆる問題を自分で作り出しておきながら、そんな自分を何も変えようとしない人間。精神の発展より科学技術の進歩ばかりを追い求める人間。全ての間違いの原因は人間存在そのものなのだ。

 ところがテレビに出演する学者連中は世界中の社会、政治、経済、軍事とニュースになる事に付いては何でも話すが、その原因であるところの人間に付いては、ほとんど何も語らない。

 折りしも混迷を極めるウクライナ情勢の中、NHKでロジェ・カイヨワの『戦争論』とエマニエル・カントの『永遠平和のために』を紹介する番組が再放送された。どちらも世界平和の実現を求めて書かれた本だ。
 カイヨワは『戦争論』の中で戦争形態の変遷や戦争に関わる人間心理について分析し、戦争の本質に迫った。特に戦争を賛美する人の心理を描き出した点は、プロパガンダを容易に受け入れる人々に対して警鐘を鳴らす意味で、現代に於いても価値のある所だと思われた。
 しかしカイヨワは如何にしてこの世から戦争を無くすかと言うところで、それは「人間の教育」しかないと結論するのであるが、これには賛同できなかった。「豹その斑模様を変え得るか」エレミヤ13・23とあるように、教育で人間の本質は変えられないからである。
 一方カントの『永遠平和のために』であるが、こちらは人間の利己心という本質に立脚し、誰もが自発的に従う法を定めようとの主張で、一定の説得力はあった。カント曰く「悪魔でも知性さえあれば国家を形成する」と。
 ただ、こうしたカントの考えは主に二つの点で問題がある。一つは複雑に利害が絡み合い対立する国際情勢の中で、どんな国家も自発的に従うような法を定める事は不可能であること。そしてもう一つの問題はカントの「悪魔でも知性さえあれば国家を形成する」と言う主張の中にある。彼の論理は「知性さえあれば」と言う前提に立脚しているが、基本的に国家の指導者は国際法を希求するような知性や理性を持たない。なぜなら、独裁国家に於いて独裁者は自身の政権が続く事しか考えないし、民主主義国家に於いても、政治家は特定の企業や団体の代弁者である事が多いからだ。国家の実態が知性に欠ける無能な政治家や低脳な独裁者であるなら、国際的な法による秩序など望める筈もないのである。

 私は作業をしながら倍速再生でテレビから流れてくるカイヨワやカントの説を聞いて、少年時代に感じていた苛立ちを思い出した。
 「人間とは何か」と言う問いは文学の主題である。故に高校生時分の私は一般的な文学作品から心理学や哲学の本まで色々と読んだのであるが、上述のように歴史的な偉人なり賢人の著作ですら、当たり前の事実を並べただけであったり、抽象度が高すぎて現実離れした議論に終始していたりするものが殆どで、苦労して読んだ割りに役に立たないことが多く、そうなると哲学書や心理学の本に良くある冗長な文章も、矢鱈と難解な言葉や言い回しも、誠実な思考の結果と言うより、著者のお粗末な論理や発見を必死で立派なものに見せようとする虚飾のように思えたのである。

 この地球上の未来に人類の存続と発展を望むのであれば、あらゆる問題の根本原因であるところの人間の本質を改善するしかない。誰もそこに気付かない、もしくは気付いてもやれないのであれば、自分がやるしかないと少年時代の私は思った。
 前著『神に至る三つの道』の最後で「人類の進歩は私のライフワーク」と語ったのは、高校生時分から「人間とは何か」に付いて自分なりの思索と探究を続けてきたと言う意味である。

 と言って、別にキリストのような犠牲的な精神やトルストイのような博愛精神が当時の私にあった訳ではなかった。志を立てた私の胸には確かにある種の使命感のようなものはあったが、私を実際に突き動かした感情的な動機は暗く、冷たく、トゲトゲしたものだった。

 そう言えばパンドラの箱に付いて、語っていなかった大事な点がある。

 お気づきの方も多いだろうが上述したパンドラの箱の物語は、私が意図的に内容を脚色したものである。私は箱の中に何も入っていなかったとしたが、本来はパンドラが開けた箱の中からあらゆる災と悪が飛び出して、慌てて箱の蓋を閉じたパンドラの元にはたった一つ『希望』だけが残ったと言うのが一般に知られるパンドラの箱の物語である。
 伝えられているところの物語では、この世の災や悪は神が下した人間への罰、もしくは呪いと言う事で、問題を人間の外に置く事になり寓話としての機能を果たさないし、最後に『希望』だけが残ったと言うのも、何だか私には幼稚なロマンチシズムのように思われ、採用しなかった。
 実のところ、最後に残ったものは古いギリシャ語で『エルピス』とされ、この『エルピス』が何を意味するかで議論があるようだ。『エルピス』が期待や予兆、希望と言う意味で使われるのは間違いないが、神ゼウスは人類を呪う積もりで箱にこの世の全ての災と悪を封じたのであって、そこに『希望』を入れるのは話の筋が通らない。なので、ここの『エルピス』は未来に対する『希望』ではなく『不安』と訳すべきではないか、と言うのである。
 なるほど。エルピスの『不安』説は『希望』説より遥かに説得力があり私好みだ。しかしパンドラの元に最後に残ったものが『不安』とするのも寓話として弱い。ここは寓意として完璧に機能し現実的な感情が相応しい。

 それは何か。

 神ゼウスからの贈り物を素直に喜んだ無邪気なパンドラ。「決して開けてはならぬ」と言う神の言付けを奇妙に思っても何の邪推もしなかった、否、出来なかった無垢なパンドラ。そんな彼女の純心を、神ゼウスは惨たらしく踏みにじった。
 確かに彼女は約束を破った。しかしそれが何だと言うのだ。パンドラが好奇心に負けて神を裏切ったのはそもそも人類を呪おうとする神の意図するところだったではないか。パンドラを、否、人類を不完全に作ったのは神自身である。ならば不完全な人間がその欠点や弱さ故に過ちを犯したとて、神が人間を罰するのは筋違いである。人間の不完全性が罪であるならば、その罪は神にある。
 神ゼウスが空の箱をパンドラに渡そうと渡すまいと、人類がその不完全さ故に戦争、差別、貧困、搾取、犯罪、環境破壊といった不幸を自ら作り出すのは決まっていた。そして神は予めこの世界の不条理に付いて人間の側から弾劾される事を見越していたのである。それで美の女神に匹敵するパンドラを作り、彼女を裏切るように仕向け、自身の罪を彼女一人になすり付けたのだ。
 さて、かくも理不尽な仕打ちを受けた純真無垢なパンドラの胸に、それまでなかった新たな感情が生まれたとしたら、それはどのようなものか。凡そ『希望』だとか『不安』だとか、そんなふんわりした曖昧な感情でない事は明らかだ。私が古代のギリシャの語部としてこの神話を語るならパンドラの心に新たに宿った感情についてはっきりこう言おう。

 それは『復讐心』であったと。

 『人類の進歩』を志た少年期の私の胸にあった暗く、冷たく、トゲトゲした感情も、この『復讐心』に違いなかった。ただパンドラと違って無神論者だった私の復讐心は人類一般の欠陥に向けられたもので、神という事は全然念頭に無かったが、何にせよ、この原始的な感情は人が何かを成すには十分な動機となり得る。現に若き日のハロルド・アグニューがバッテリーを組んでいた相手の戦死を契機にマンハッタン計画に加わり、若き日の私は人間の醜態に嫌気がさしてその改善に乗り出した。そして一方は人類を絶滅させかねない原子爆弾を作り出し、一方は人類の進歩と救済についての著述をなした。結果は正反対だが、二人とも出発点は同じ『復讐心』だったのだから、奇妙な皮肉である。

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