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祈りをこめてお皿を並べる

私は修道院に入ってすぐに、アメリカの修練院に派遣され、修道者になるために修練中の約百三十名ほどの人たちと一緒に生活をしました。朝五時から夜八時までの間、朝夕の祈り、黙想、ミサ、講和のほかは、ほどんどの時間が草取り、洗濯、洗濯物を干すこと、アイロンがけ、料理の下ごしらえ、後片付け、掃除、という毎日の繰り返しです。

八月の暑い昼下がりのことでした。たまたまその日は私が夕食の配膳をするために、台所から運ばれてきたお皿やコップ、フォーク、ナイフ、スプーンをテーブルの上に並べていました。その時、「シスター、あなたは何を考えながらお皿を並べていますか」と修練長から尋ねられたのです。私はとっさに「何も考えておりません」と返事をしたところ、厳しい声音で「あなたは時間を無駄にしています」と言われてしまいました。

私は一瞬耳を疑いました。言われた仕事を言われたように、おしゃべりもせずに人よりも早く仕事をしているのに、なぜ私が時間を無駄にしていると言われるのか…。

すると修練長は今度は笑顔で、「同じお皿を並べるのだったら、やがて夕食にお座りになるお一人お一人のために、祈りながらお皿を置いていったらいかがですか」とおっしゃったのです。

何も考えていなくても、「つまらない」と思いながらでも、お皿は並びます。ところが、「お幸せに」という気持ちで祈りをこめてお皿を並べれば、その時間は意味ある時間になるのです。

草取りにしても、私たち修練女たちは表面の草だけをむしっていました。その時「あなた方は草を取っていません。草というものは、根っこから根こそぎ取らないと、またすぐに生えてきます。なぜあなた方はこの草一本を根こそぎ取る時に、今蔓延している少年少女たちの非行が、ひとつ根こそぎ抜かれますように、そいういう祈りをこめてしないのですか」と言われたのでした。

私は「祈り」というキーワードをたよりに、「愛と祈りで子どもは育つ」に巡り合いました。なぜか「祈りが通じた」(※偶然かもしれないけど、偶然にしては出来すぎていたという)ビックリ体験の根拠を、なんとか紐解けないものか、と思っていたからです。

それは、2020年2月、欧州にコロナの感染症が上陸する直前のこと。私は、フィンランドの学生寮仲間とともに、スペインの巡礼路「カミーノ・デ・サンティアゴ」を歩いていました。10キロのリュックを背負い、道ならぬ道を悪天候の中、1日20〜30キロ歩くという、心身ともに結構キツい旅でした。(もちろん、スペインの田舎道を仲間と徒歩旅するということで、楽しさも余るほどあるのですが。)

ふだんは勉強なり読書なり趣味なり友達に会うなりして過ごす時間を、6日間も「歩く」だけで費やすのです。その間、何も捗りません。ある観点から見れば、歩くだけって非生産的な時間の過ごし方かも知れません。

肉体は歩くので忙しいけれど、心の中は自由です。これを有意義に使う手はないかしらと思い、周りのひとたちに倣って、「祈る」ことにしました。

今まで、自分や肉親に対して、初詣の時などに合格祈願や健康祈願を「願ってみた」ことはあっても、友達に対して祈ったことは一度もありませんでした。巡礼当時は、私の大親友が大きな苦悩を抱えていたため、「旅の間は彼女のために祈ろう」と決意し、一歩ずつ前へ歩みを進めるたびに、祈りました。巡礼路ではなぜか、いままでに思ったことがないほど「神はいる、祈りは神に届くはずだ」と確信が湧いていたのです。ロケーションが特別だったのと、あまりに疲労困憊していたから、余計なことを考えずに済んだのかもしれません。それが良かったのか、なんなのか、今も分かりませんが、巡礼を終えて短期間のうちに、友人に対して祈ったことが全て実現する、という奇跡みたいなことが起きました。

徐々に、「神はいる」という確信と、神へ近づく手段としての「祈り」に関心を持ち始め、もともとクリスチャンの多くいる家系に生まれていたということもあり、探求を始めました。

祈りとは、決まった文句を作法に則って発声するだけのものではないのですね。他者に向け、神に向け、真心のエネルギーを向ける。それこそが、パワフルな祈りなのだと思います。

お皿を並べる時も、草をむしる時も。こういった作業は「雑用」の部類に入るものです。誰もが好んでやるような作業ではありません。

私もこのシスターの文章を読ませて頂き、例えばバス停に早く着いて待たなければならない時、待ち合わせに友人が遅れてくる時、ため息をついて時計を見るのではなく、祈りを必要としている誰かのために祈れる自分でありたいです。そういう自分でいられない時、そうあれるように祈っていこうと思います。

続きます。

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