本で出会ったきらめく言葉たち

印象に残った本の言葉と、それにまつわる日々の想いなどを書いています。 日本の大学を卒業…

本で出会ったきらめく言葉たち

印象に残った本の言葉と、それにまつわる日々の想いなどを書いています。 日本の大学を卒業後、フィンランドで大学院在学中(デザイン系)。社会人開始目前。関心のあるテーマ:人の心、留学、北欧、デザイン、アート、工作、信仰、祈り、聖書、巡礼、カミーノ、児童心理学、アートセラピー。

最近の記事

人が人を助けられるなんて

授業の中で、私は学生たちと約束をします。「あなたがた一人ひとりは私の宝なんだから、死んじゃだめよ。死なないでね。死にたくなったら、『苦しいから、もうちょっと生きてみよう』とつぶやいてごらんなさい」と。それでも死ぬ人がいるのです。 その時ばかりは、「なんて私には力がないのだろう」と、本当に無力感にとらわれてしまいます。 でも、それは当たり前のことなのです。 私が話をしたら、自殺を思い留まってくれるー、そんなことはないのです。人が人を助けられるなんて、大変な思い上がりだと思い

    • 神の思いは、人の思いと異なる

      私が修道生活に入ってから聞かされ続けた言葉の一つは、「与えられた仕事を従順に受け入れる時、必要な恵みはついてくる」でした。 アメリカの修練院に突然派遣された時も、その地で博士号取得を言い渡された時も、そして岡山への赴任を命じられた時も、その翌年、前任者の急死によって、三十六歳で学長職に任命された時も、この「恵みは与えられた仕事についてくる」という信頼が、私にその試練を乗り越えて行く力を与えてくれました。 自ら求めたものではない境遇、立場、仕事…、これらは、一つとして、私の

      • 置かれた場所で咲いている花

        私がいつも学生に話すのは次のようなことです。 「あなた方が自分の欲している職業に就くこと、それを心から願っているけれども、それ以上に私が願っているのは、与えられた仕事を果たす、そのために必要な力を願い求めていく人になってほしいということです。つまり、自分の職場で、自分の仕事を一生懸命に果たす人になってほしいということです。 言葉を換えて言えば、置かれた場所で咲いている花にいなってほしいのです。『私はあそこで咲きたい、あそこへ置かれたら私は咲けるのに…』と思う気持ちもわから

        • 脱いだはき物を揃える自由

          私たちは、自由とは何でも好き勝手にすることだと思い違いをしがちですが、自分が今何をするか、あるいは今はしないでおこうといったプライオリティ=優先順位を自分で決める自由が、人間独特の自由なのです。 たとえば、もっとテレビを見ていたいと思っても、レポートを書かなければならない場合は、テレビを消してレポートを書くというように、自分の判断、意志の力で、それを選ぶことができるし、それを選べる人が「自由人」なのです。 東京に自由学園という学校があります。今から八十余年前位に、羽仁とも

        人が人を助けられるなんて

          私も許されて生きている

          許しがたい人を許し、愛しがたい人を愛することは、自分が自分と戦うということであり、英雄的な勇気を必要とします。そのためには、本当に悔しい思いをすることがあるかも知れません。自分が損をすることを受け入れないといけないこともあるでしょう。 あいさつをすべき人がしない。それだけでも腹が立つのに、その無礼を許すだけでなく、次の機会に、こちらから「おはよう」と言うとすれば、それはダブルの損です。でも、人間、ダブルの損をしないと、心の平和は得られません。マイナスとマイナスはプラスになる

          私も許されて生きている

          祈りをこめてお皿を並べる

          私は修道院に入ってすぐに、アメリカの修練院に派遣され、修道者になるために修練中の約百三十名ほどの人たちと一緒に生活をしました。朝五時から夜八時までの間、朝夕の祈り、黙想、ミサ、講和のほかは、ほどんどの時間が草取り、洗濯、洗濯物を干すこと、アイロンがけ、料理の下ごしらえ、後片付け、掃除、という毎日の繰り返しです。 八月の暑い昼下がりのことでした。たまたまその日は私が夕食の配膳をするために、台所から運ばれてきたお皿やコップ、フォーク、ナイフ、スプーンをテーブルの上に並べていまし

          祈りをこめてお皿を並べる

          愛されずとも愛することができる方が神

          十九世紀の偉大な古生物学者であり、神学者でもあったティヤール・ド・シャルダンは、次のように言っています。   人生にはただ一つの義務しかない   それは愛することを学ぶことだ   人生にはただ一つの幸せしかない   それは愛することを知ることだ 私たち大人は、子どもたちにこの義務を教え、この幸せを味わわせたいものだと思います。人を愛することができる子どもに育てるためには、子ども自身が、まず愛されていることが大事だと私は思うのです。人から愛されて、人は初めて自分が愛すべき存

          愛されずとも愛することができる方が神

          リトル・デス(little death)

          「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ。一粒のまま止まれば、そのまま枯れる」これは聖書の中の一節で、この聖句は「死んで生きる」不思議な力を言い表しています。 (中略) 「小さな死」というのは、自分の生活の中での小さな我慢、自分の利己心に勝つこと、他人に流されないで生きること、相手が無礼な態度を取ったのに仕返しすることなく許すこと、相手が恩知らずなのにこちらがやさしくしてあげること…などを指します。これらはすべて自分が死なないとできません。 私が、私が、と言っている

          リトル・デス(little death)

          自分が自分を愛すること

          自分が満たされていないと、自分の欲求を満たすことに精いっぱいで、他人の存在の大切さに気づくゆとりがなくなります。つまり、人は満たされていないと、相手を自分の欲求不満を解消する道具として見てしまいがちです。そして、欲求を満たしてくれる人は大切にしても、そうでない人を遠ざけたり、その人と共にいると退屈したりすることがあります。つまり、人は相手を、自分の欲求不満を満たしてくれるか、くれないか、という尺度で見てしまうことが多くなるのです。 いくら経済的に、また物質的に満たされていて

          自分が自分を愛すること