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リトル・デス(little death)

「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ。一粒のまま止まれば、そのまま枯れる」これは聖書の中の一節で、この聖句は「死んで生きる」不思議な力を言い表しています。

(中略)

「小さな死」というのは、自分の生活の中での小さな我慢、自分の利己心に勝つこと、他人に流されないで生きること、相手が無礼な態度を取ったのに仕返しすることなく許すこと、相手が恩知らずなのにこちらがやさしくしてあげること…などを指します。これらはすべて自分が死なないとできません。

私が、私が、と言っている間はできないのです。私はよく「リトル・デス」とつぶやくことがあります。たとえば、会いたくない人に会わなければいけない時、階段を下りながら「リトル・デス」とつぶやきます。一粒の麦の「死」が豊かな収穫をもたらすように、私たちも自分が死ぬことによって豊かないのちを生み出すことができると信じる時、日々の生活の中で自分が死ぬことの意味ができてきて、死を肯定することができるのです。

損したくない。自分だけ犠牲を払いたくない。他人のために自分の時間を無駄にしたくない。早く切り上げて、お菓子食べながら本読みたい(笑)などなど。私は一人っ子育ちのためもあり、おそらく他の人よりも我慢をせずに育って来ました。目に見えるものでも、見えないものでも、自分のものを「差し出す」ということが、極端に苦手な人間でした。

徐々に変わって来たのも、やはり、留学中の出会いです。

よく私に身の上相談をしてくれる一歳上の友人がいます。もう出会って4年目です。壮絶な過酷な人生を送って来た人です。まだ癒えない幼少期・思春期の心の傷があること。母国語で話せる人がフィンランドの地にいないこと。限りある友達の一人が私であったこと。私が一身に身の上相談の聞き役を務める、という関係が生まれました。私の人生始まって以来のことです。

「言える=癒える」「話す=放す」と誰かが書いていましたが、まさにそのようなことが繰り広げられました。聞く方の私は、否定も肯定もせず、ただウンウンと聞くだけ。それしか出来ません。彼女の方も、素人の私の助言が欲しいわけでもなく、ただ苦しくて苦しくて一人で抱えきれなかっただけ。一緒に悲しい記憶、怒りの感情を追体験してしまって、私がダウンすることもよくありました。反対に、妙にスッキリした顔つきの友人。なぜ、人様の心の掃除機みたいなことをしているのだろうかと、この関係を続けて私には何の得があるのだろうかと、考えてしまいました。

この時、自分は「120%損をしている」と思っていました。ただ、他人の人生に踏み込んだことのない未熟な自分にとっては、「新たな学びになるのかもしれない」ということも薄々感じとっていました。

徐々に、苦しく重たい話を聞きながらも、私自身の心が持って行かれたり同調しすぎないコツをつかみ、一方的に聞くだけでなく話の焦点をポジティブな方へ向けることもできるようになって来ました。聞く方の心の防衛策でもありますが、もっと建設的に身の上相談の時間を使えないか、と考えたからです。「これも何かの役目かも知れないな」と思い、徹底的に伴走しようと決めて、私が発見した彼女の聡明さや才能について具体的にたくさん話すことにしました。そうして数ヶ月たち、徐々に彼女は、「こんな私」と言わなくなってきました。話題の多くが、過去から未来へ移っていきました。彼女の周囲で、良いことも少しずつ起きるようになりました。

いくら友達とは言っても、重荷を代わりに背負うことはできません。ただ、本人の重荷を一緒に調べて、「これはもう要らないね」「これはいつか使えそうだよね!」と言うことは出来るのだと、体験的に学びました。気づくのに、とても長い時間がかかりました。

最初こそ、私だけの自己犠牲で損だと思っていた時間(ごめんね、友人どの!)が、こんなに大きな学びの種に昇華できたということ。実は私がもらうほうに回っていたという不思議。私の「リトル・デス」(ほんとに、リトルです)が、何か別の良い形に循環されたという恵み。その喜びがいかに大きいか、教えてもらいました。この出会いに感謝。

続きます。



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