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愛されずとも愛することができる方が神

十九世紀の偉大な古生物学者であり、神学者でもあったティヤール・ド・シャルダンは、次のように言っています。

  人生にはただ一つの義務しかない
  それは愛することを学ぶことだ
  人生にはただ一つの幸せしかない
  それは愛することを知ることだ

私たち大人は、子どもたちにこの義務を教え、この幸せを味わわせたいものだと思います。人を愛することができる子どもに育てるためには、子ども自身が、まず愛されていることが大事だと私は思うのです。人から愛されて、人は初めて自分が愛すべき存在(ラブリーな存在)であることに気づき、その自身が、他人を愛するゆとりを生みます。

それまで「愛してちょうだい、愛してちょうだい」ということのみ心を奪われていたのに、その必要がなくなって、他人を愛することのできる人に変わるのです。そして、そこにまた、もう一人の”愛された人”が生まれ、かくて愛はサイクルとして世に溢れていきます。

では、誰が一番先に愛したか。愛されずとも愛することのできる方を私たちは、神と呼ぶのです。

フィンランド留学中、もともと出不精のため、私の交友関係はあまり広くありません。一緒に住んでる十名超の寮仲間と、寮のOGと、学外で出会って深い付き合いをしてる人がふたりほど。

驚くほどに、幼少期の親との問題を今も引きずっている人が多いのです。親が不仲で離婚をした、離婚した親が家庭を持って交流が途絶えた、親から愛されずに疎まれて子ども時代を送った、親がアル中で家庭崩壊していた、という話の数々。日本に比べ、幼い子がいる間は離婚をしないという家庭観念がうすいのかも知れません。成年して、学を修めて仕事を持っても、自分のアイデンティティーに確固たる自信や愛情が持てず、中年にさしかかっても苦しんでいます。日本にいた頃、ここまで他者の家庭問題に接する機会は、ありませんでした。

その中で、信仰によって苦しみを脱した人の例もたくさん見ました。それは、親の愛に先んじて、神の愛があった、という考え方によってです。発想の大転換です。

両親によってのみ自分が生まれた、その親が愛してくれなかった、という、子ども時代に受けた傷がいまも苦しみの種となっているわけですが、信仰をもつ人は、このように考えています。「神が意図したからこそ、両親を通じて自分はこの世に生を受け、社会でなんらかの役目を負っている。それ自体がすでに、神に愛されている証拠だ」と。だから、堂々と生きよう、と。

真に神の愛を信じて生きる人は、とても強いです。他者の助けがなくともすでに自分が愛されていることを実感しているので、見返りのない愛を他人に与えることのできる人たちです。間近に見て来ました。(同時に、おなじクリスチャンでも、信仰エリートのような排他的な考えを持ち始める人というのも見る機会がありましたが…。)

信仰を持たない人で同じ問題に苦しむ人も、もちろんたくさんいるわけで。そういう場合には、どのように「救い=自分へたゆみなく向けられた愛」を見いだせるのでしょうか。そういうことにも興味を持ち始め、河合隼雄さんの本も読み始めました。((卒論やれよ、私!))

続きます。


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