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カンボジアの小学校で6ヶ月働いてみて

2022年8月17日。
お母さん、お姉ちゃん、親友2人に関空まで見送ってもらってから半年が経とうとしている。

本当に貴重な経験をさせてもらった。
今日は、学んだことや考えたことを記録用に残そうと思う。

✈︎

6ヶ月間で学んだこと

・コミュニケーションにおいて、ノンバーバルコミュニケーションは90%以上を占めている
・思考の経験を積んでいれば、怒鳴ることは不要
・教育は百年の計

この3つに集約されるかと思う。
これらを噛み砕いて思考を深めたい。

✈︎

①コミュニケーションにおいて、ノンバーバルコミュニケーションは90%以上を占めている

渡航前は、言語が通じないことの不安があった。
だけど、半年過ごしてみて、言語は一つのツールであると学んだ。
本当に大切なことは、伝えようとする意思だと思う。

幼・小を合わせて150名ほど在籍している。
みんな生活言語はクメール語。

なので、日本語は日本の小学校で英語を学んでいる感覚だ。
授業の大半は、母国語であるクメール語が使われている。

私は2年生の担任だ。
7歳、8歳の子達なので、まあ毎日色んなことが起こる訳だが、徐々に通訳のためにカンボジア先生を呼ばなくても意思疎通ができるようになってきた。

11月の学級開きの時に、伝えたこと。

”あなたと私と話をしている。〇〇先生(カンボジア先生)と話すときは話す時。間違っていいよ。考える、話すって楽しいよ。だから、いっぱいお話しようね。”

最初は、私自身も子ども達も”通じない”という固定概念があったように思う。
なので、すぐカンボジア人先生に助けを求めていた。
だけど、私も身振り手ぶり、絵や簡単なクメール語で話をしていると徐々に子ども達はよく聞き、よく見て、考え、コミュニケーションをしようという変わってきた。

言語ができたことに越したことはない。
けれど、できないからといって引き目を感じることはないと思う。

ノンバーバルコミュニケーションのことは大学で学んだ。
”コミュニケーションにおいて、ノンバーバルコミュニケーションは90%以上を占めている”らしい。
その当時は、特別支援教育の文脈で学んでいたけれど、これは外国語でも同じことだとわかった。

また、この曲の意味も今なら腑に落ちる。

”きっと此の世界の共通言語は
英語じゃなくて笑顔だと思う”

人として、通じるものが確かにある。

✈︎

②思考の経験を積んでいれば、怒鳴らなくていい

日本で教員を1年半。

どこに行っても
”怒鳴らければ、指導が入らない”
という環境だった。
これが苦痛で仕方なかった。

だけど、現職で怒鳴るということをしていない。
そこまでしなくても、しっかりと目を見て、思考する場を設定したら、子ども達自身で答えを導き出している。

この違いは何か。

・教員の余裕
・ひとり親家庭の少なさ
・少人数制

噛み砕くとこれらが要因していると感じる。


沖縄の教員時代と比較して考えていきたい。
大学を卒業してから、身一つで沖縄で教員をさせてもらった。

・1年生30名ほどを一人で→立ち歩きが常に3名ほど
・約半数がひとり親家庭→宿題を全然出さない子がいる。登校渋りが2名ほど。愛情不足の子が多かったように思う
・毎日5時間の授業を一人で行う→教材研究が間に合わない。残業の日々
・休み時間ごとにトラブルが起こる→教室で見守り。15時までトイレに行けない
・トラブル続き→放課後の電話連絡。働いている人ばかりなので、つながらない

10月ごろには心身ともにきつくて、辞めることばかりを考えていた。
近くに友達もいない。
孤独の毎日。(ほんまきつかった、、)
性格的に怒鳴る・叱る・大きな声を出すことが苦手だった。
でも、それをしないと指導が入らない。
もっと違う方法があるはずなのに、そうできないもどかしさ。


今はというと、

・2年生20名ほどを2人で→大人の目が多いほど、教師も子どもも安心して過ごすことができる
・教科担任制
・1日のもち時間は2コマ
・保護者連絡はメッセンジャーで→電話しなくてもいいので精神的に楽
・ひとり親家庭が少ない→情緒が安定している子が多い
・トラブルが起きてもゆっくり話を聞き、思考する時間を設けられる→教師複数人で対応できるので、一人ひとりと向き合う時間がある

思考の経験ができるのは、家庭環境によるものが大きい。
沖縄では家庭環境が複雑な子がとにかく多かった。
指導の入りにくさには、奥にある情緒面の不安定さが関係していたように思う。

教育は学校・家庭・地域ないし社会で育まれていくものだ。
カンボジアはこれらのコミュニティネットワークが強い感覚がある。
学校が機能しきれていないという側面もある。
だが一方で、子ども達をみんなで育てていこうぜ!という団結感があると感じる。

・小さな子どもを兄弟夫婦に預ける
・近所の珈琲屋さんに子どもを預ける
・従兄弟と一緒に住んでいる

など。

私もこの相互援助の文化に少しずつ適応してきたのか、日本にいた時よりも頼ることができてきたように思う。

環境さえ整っていれば、人は思考することができる。
そう学んだ。

✈︎

③教育は百年の計

”教育は国家百年の大計”
という言葉があるが、その通りであると思う。

教育活動は一朝一夕。
すぐに結果なんて出ない。

教員2年目にして、ようやくわかった。

教育は短期的に数字で測れるものとは真逆のところにある。
長期的で、数字では測れない。難しい営みな上にお金も時間も人もかかる。

生きるというのは、ほとほとめんどくさい。
笑ったり、泣いたり、ぶつかったり、力合わせたり、頑張ったり。
そんな生きる、人が成長するという渦が学校だ。
色んな人が共存して、ぶつかって、その度に話し合って、折り合いをつけていく。

そんな成長の過程に日々向き合っている。
だから、しんどいのは当たり前だ。

しんどいけれど、子どもの成長を間近に携われる瞬間は言葉で言い表せないほどの喜びがある。

カンボジアの教育は確かに改善点が多い。

・詰め込み教育
・教員の待遇が悪い
・教員養成を含め悪循環により、教員の質が低い
・地域格差
・情操教育の欠如
・経済的な問題

など。
これらの問題を肌で感じた。

日々、大変なことは多い。
けれど、ボスはよく、教育って楽しいんだよと声をかけてくれる。
ああ、そうだったと毎回思う。

そして、大学1回生の時の与える以上に、与えられているという感覚が蘇る。

私は全ての問題にアプローチすることはできない。
街を歩けば、お金を求められることもしばしばある。

今は、手に届くカンボジア人の子ども達と先生達しか関わることができない。
関わり方が正しいのか、悪いかなんて答えなんてない。
なぜなら、教育は百年の計であるからだ。

答えは焦らなくていい。
やってきたことに意味づけをしていく。
今やっていることは未来の芽を育むことだ。

✈︎

最後に

長くなったので、この辺で終わろうと思う。

思考整理してみて、これらのことを学べた環境、支えてくれた人たちに感謝したいと思った。
採用してくれたこの組織にも感謝したい。
そして、この環境に飛び込む決断をした私の勇気によくやったと認めてあげたい。

ということで、おしまい!
明日からもMoi Moi一歩ずつ進んでいこう🌿

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