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屋根裏のBAR#3

10年前に大阪新世界に流れ着いてきた時、出会う人間達は皆肩書きがあった
定職についている人はまばらで、ちょうどわたしは31歳だった為、18歳から流れ模索していた期間は13年経過していた。
当然、その時間に一つのことに打ち込んだり、継続して何かをし続ける連中は世の中に沢山いて、この大阪に来たタイミングでその連中達との出会いがおおくなった
なかなか成熟していて、自分自身に絶対的な個があり、キラキラ輝いてるようにわたしは感じた。
ただこの時に、何者かである事に対しての強烈な嫌悪感も抱いていた。
わたしは東日本大震災と1年向き合い大阪にきたばかりだった
地元、気仙沼はこてんぱんに被災した
ただただ絶望感しかなかった
絶望と向き合ったが抱えきれなくなって大阪に逃げた
落ち武者のような感じだった。
新しい土地はそんなのおかまいなしに、自分を磨き圧倒的な個の世界を表現しようとする連中ばかりだった。
遠く離れた震災をトリガーにして様々な表現者たちが自身のアイデンティティの為に、原発問題を大義名分にして動かされていた
居心地が悪かった
そんな時、何者かで無い連中に救われた
皆、必死に自分自身を模索していた、何者かになろうと必死だった
わたしは何者かである人間が嫌いだった
石を投げればミュージシャンやアーティスト、パフォーマー、現代美術、などなど様々な表現者が大阪に来たての時に津波の様にドッとわたしに押し寄せてきた。
その中でも何かを模索している連中=わたしと同じ人種は肩身の狭い思いを心の中でしていたであろう。
わたしはその波にのまれた
その渦の中心を目指してみた
祭りを起こし、シャッター商店街の中で飲み屋けんイベントスペースのイマジネーションピカスペースをつくった。
そこに全国から何者かである者達がひっきりなしに現れた。
イベントなどした事もないのに年間で80本のイベントを企画して運営した。
ノリでインドに行き3週間、ガンジス川で相撲のパフォーマンスをした
詳細はこちらより、インドで間違った相撲を伝える
https://www.youtube.com/watch?v=Qe_uHphs5MU
帰国すればインド相撲で巡業して、色々なアートフェスティバルで相撲をした
作家として芸術祭に呼ばれてインスタレーションの作品をつくった
高床式ノイズ茶室と言うノイズユニットを作り
世界遺産下鴨神社の川の中に茶室を作り、そこで音楽パフォーマンスもした
客は世界からも来るようになっていった。
捌いて捌いて捌きまくった
頭の中で思いつく事は全て行った。
イマジネーションピカスペースの認知度はかなりのところまで来ていた。
大阪新世界に来て10年が経過していた
わたしは何者かになってしまった
それなのに、何者かである事に対しての嫌悪感は一層深まるばかりだった
そんな時に救われるのは「西成ガギグゲゴ 七人の侍」の連中だった。

続く

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