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大きな里芋を買ってきたので

この前のキセラ川西のイベントの帰り、阪急オアシスで巨大な里芋を買ってきた。里芋はどうしても皮むきが面倒だが大きいのが一つだとなんとかなるだろうと思った。案の定、うまくいった。

今日はクレモナのメンバーとその里芋と鶏の煮っころがしを食べた。転がすというよりは炊いたと言った方が正しいように思った。


普通の生活においても、自分で何とか出来ること、自分で努力すれば何とか出来るかもしれないこと、自分ではなんともできないことというのはそこら中に山ほど積みあがっていて、それに対してひとつひとつ感情や感想を持つことがあるときから面倒くさくなった。

しかし、その感情や感想は消えるわけではなく、わたしから目を背けられただけでそこで、私がもう一度振り返ってくれるのを待っている(のかもしれない)

そういうときに料理の醍醐味というのは、無心に何かをつくる、そして食べるということだ。彼らの存在を忘れる。嫌なことは忘れるのだ。

結局どんな大変だったことよりも、嫌だったことよりも、楽しかったことが記憶に残る。それを知っているからこそぞんざいに忘れ、記憶の彼方に放り込む。芋の皮をむき、切り、水を入れ、煮て、調味し、汁気を飛ばす。それだけで十分気持ちが整う。あなたのこと、見ているよ、と彼らにいいつつ心はここにない。それくらいいいじゃないか。だってずっとそこにいる感情なのだから。

20240212

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